鐘楼(しょうろう)と鼓楼(ころう)は、古くから中国の都市にある特有の建物です。「晨鐘暮鼓(しんしょうぼこ)」という熟語のように、朝になると鐘、夜になると太鼓を打ち鳴らし、時間を知らせる用途として使用されております。鐘楼は戦時中に警報する役目もあります。
北京市にある鐘楼は、北京市区のシンボルで、その100メートル南に鼓楼があります。鐘楼が建造されたのは元王朝に遡ります。元・大都(だいと)の時代に、同じ場所には万寧寺(まんねいじ)の中心閣(ちゅうしんかく)という楼閣があり、中には鐘が吊るされていたため、「鐘楼」と呼ばれていました。明の永楽の時代に北京内城改修事業で、宮殿を修繕すると同時に、中心閣の跡地に鐘楼が建てられました。よって、『大明一統志』には「鐘楼、明永楽十八年(紀元1420年)建」という記載があります。
鐘楼は、煉瓦の組積構造で、煉瓦の基壇の上に楼が建てられています。鐘楼全体の高さは47.95メートルで、そのうち楼の高さは33メートルあります。鐘楼の中央の八角形の木枠に吊るされている銅の鐘は、明の永楽の時代の鋳鐘工場で作られました。その巨大な体積と重量は測定するのが困難であったため、鐘楼に関する史料にある記載はそれぞれ異なっています。現代で測量したデータによると、鐘の高さは5.55メートルで、龍頭を含めれば7.02メートルあり、下端の直径は3.40メートルで、上部の直径は2.52メートルあります。そして、総重量は約63トンあります。鐘の西の方に、長さ2メートル、直径0.25メートルの丸太が撞木として吊るされており、その下には階段があります。鐘の北面には「大明永楽吉日」の文字が刻まれています。重量からすると、鐘楼の鐘は中国で一番重たい鐘になります。専門家によると、このように大きくて奇麗に仕上がっている青銅製の鐘は、現代技術でも鋳造するのは難しいそうです。
民間には鐘楼に関する伝説があります。この青銅鐘を鋳造するのに大変長い時間がかかり、鋳造者の一人で鄭氏という鋳造師がいました。鄭氏の娘は、鐘の鋳造に悩まされている父を見て、父を助けようと思い、わが身を銅錬炉に投げ入れました。鄭氏はそれを止めることができず、ただ一足の刺しゅうの靴を掴みました。親思いで人々を感動した鄭氏の娘は「鐘鋳る姫」と呼ばれました。やがて鐘が完成し、その音はとても響きがよく、明快です。しかし、雨の日には、音が少し変わり「シェーシェー」と聞こえるそうです。「シェー」は中国語で「鞋(靴)」と発音が似ているため、その音が聞こえると、「鐘鋳る姫が刺しゅうの靴を取り戻そうとしている」とも言われました。
時刻を知らせるとき、鐘の鳴らし方は明るく円やかで長く続き、数千メートル先まで響き渡れるそうです。当時、毎日の夜7時に鳴らすことは「定更(ていこう)」と呼ばれ、毎日の朝5時に鐘を鳴らすことは「亮更(りょうこう)」もしくは「亮鼓(りょうこ)」と呼ばれました。清の乾隆までは、時刻をお知らせするのは正午の1回と深夜の5回でしたが、乾隆以降では朝5時と夜7時の2回になりました。時刻を知らせるときには、「更夫(こうふ)」と呼ばれる二人の係がそれぞれ鐘楼と鼓楼に登り、それぞれの持っている「孔明灯」と呼ばれる天灯を挙げ、お互い照らし合わせてから、片方は鐘を、もう片方は太鼓を打ち鳴らします。
太鼓を打ち鳴らす時、ゆっくりと18回、やや速く18回、そして速く18回の54回を2回繰り返し、計108回打ち鳴らします。太鼓叩きの107回目と108回目の間には少し間を取り、そして108回目は太鼓叩きと同時に鐘を鳴らします。「定更」と「亮更」の間にも、1時間おきに鐘を1回鳴らし、時間を知らせます。鐘の音について「都城内外十数里にて耳を傾けぬ者おらず」という碑文の記載があります。
鐘楼の鐘が最後に鳴らされたのは1924年、清王朝の最後の皇帝・溥儀が王宮を出た時、それ以来、鐘は静かに過ごしてきました。
(翻訳・常夏)