古代人は、「良い種を蒔けば良い実を結び、悪い種を蒔けば悪い実を結ぶ」という真理を常に確信していました。世の人々が知る限り、悪事をした人たちは、豪邸や名車を持ち、山や海の幸を食べている人が多いですが、神様はしっかりと見ています。報いを受けていない訳ではなく、時が来ていないだけです。無神論に洗脳さ、教化されてきた中国人にとっては、このことはいささか理解しがたいことであり、目に見えることや自分の身に起こったことしか信じません。
清朝の学者である紀暁嵐は、『閲微草堂筆記』の中で、師である陳文勤氏から聞いた話で、彼の同郷人で人生で一度も重大な罪を犯したことがない人がいました。何事にも貪欲で、何の損もしたくなくいつも他人に損失を与えていたと書いています。
ある年、この人が科挙の試験(隋から清の時代まで行われた官僚登用試験)を受けるために、友人たちと宿に泊まりました。突然の大雨で、泊まっている部屋が雨漏りで濡れてしまいました。北側の壁のわずか数尺の所だけ水の跡がなく、男は急に風邪をひいたと言い出し、北壁の根元に横たわり、汗を出していました。友人たちは彼が病気のふりをしていることを知っていましたが、その居場所を移動させる正当な理由を見つけることができませんでした。
雨がますますひどくなり、友人たちは眠れずに雨漏りのする部屋に座り込み、男は一人でぐっすりと眠っていました。やがて北壁が崩壊しました。友人たちは眠れなくて起きていたため、急いで飛び出して逃げることが出来ました。その人だけが壁の真下に叩きつけられ、出血して片足と片腕を骨折し、科挙の試験に参加できない結果になって担ぎ帰らされました。
紀暁嵐はこの事件を聞いて、下僕の于禄を思い出しました。彼もとてもずる賢い人だったのです。于禄は紀暁嵐と一緒にウルムチに行きましたが、ある朝出発すると雲がかかっていました。雨が降りそうだと思った于禄は、自分の服や荷物を全部車の箱に入れて、紀暁嵐の服と荷物で覆っていました。十数マイル歩くと天気は晴れてきましたが、車輪が泥穴にはまり,泥水が車の下から車箱に染み込んで、逆に下に置いておいた于禄の服が全部濡れてしまいました。
紀暁嵐は、于禄に起こったことが先の話の男に起こったことに、とてもよく似ていると語りました。これは「企みや巧妙な詐欺」が神様に嫌われていることを示しています。心をもてあそんだり、詐欺を働く人たちが同じ過ちを犯さないように、後世に教訓を与えようとしたのです。
紀暁嵐が記録した物語を知ることで、人々は悟ったはずです。誰にも話していないからといって、他人に知られていない訳ではありません。頭上三尺に神あり、いつも神様があなたのすべての言動や考えを見ています。そして「善も悪も最後には報われ、遅かれ早かれやってきます」
見えないから、信じないからといって、神様がいない訳ではありません。
(翻訳・林華)