唐王朝初期、婁師徳(ろう・しとく)という名宰相がいた。背が高く、大きな口と厚みのある唇はその人物の人となりを表していた。史書によれば彼の性格は落ち着いた物腰で度量が大きく、たとえ彼を怒らせる相手であっても許しを請えば、謙虚に譲歩する。しかも立腹した表情を顔に出すこともない。中国ではよく知られている諺の「顔に吐かれた唾が自然に乾くのを待つ」すなわち、侮辱を受けてもじっと我慢するというのは彼に由来している。
顔に吐かれた唾が自然に乾くのを待つ
ある日、婁師徳は別の大臣の李昭徳(り・しょうとく)と一緒に道を歩いていた。娄師徳は太った身体で、動作もゆっくりで歩くのが遅い為、李昭徳はそれを嫌がり婁師徳に向かって怒って「まったく田舎者は足手まといになって困る」と言った。しかし婁師徳は笑いながら、「私は田舎者ではないとすると、一体誰の事ですかな?」などととぼけて言うのだった。
ある年、婁師徳の弟が地方の行政長官に任命され、就任前に兄である婁師徳に別れの挨拶を言いに来た。長官になるにあたって何かアドバイスを頂けないかと頼むと、婁師徳は「私はすでに宰相となり、今度はお前が地方の高官に任命されるというこの上ない栄誉を得た。これにより、我々を羨んだり、妬んだり恨む者が出てくるだろう。妬みや恨みをかわす為に、我々は忍耐を学ぶ必要があるだろう。」と言った。弟は兄を安心させようと、「誰かが私の顔に唾を吐いたとしても、自分できれいに拭き取るから大丈夫です」と述べた。
けれども婁師徳は首を横に振り、「お前に立腹して、顔に唾を吐いた者は、お前が唾を拭き取ったりしたら、ますます怒りを覚えるだろう。そしてその嫉妬や恨みは後々まで続くであろう。私に言わせれば、顔に唾を吐きかけられても、自分で拭き取ったりしてはならない。とにかく自然に乾くのを待って、何もしてはいけないのだ」と言った。これこそが「顔に吐かれた唾が自然に乾くのを待つ」の諺の由来である。
優れた鑑識眼
婁師徳は他人に対して、寛容な度量があっただけでなく、人を見る眼力があった。唐の朝廷には狄仁傑(てき・じんけつ)と言うもう一人の宰相がいた。婁師徳が彼を宰相に推薦したのだが、狄仁傑自身はそのことを何も知らなかった。彼にとって婁師徳は単なる武将に過ぎず、ある意味見下している面もあった。当時の皇帝である則天武后は狄仁傑のそのような気持ちに気が付き、狄仁傑に質問した。「お主は婁師徳を有能な人物だと思うか?」
狄仁傑が答えて言うには、「彼は守りの堅い武将だと思いますが、彼が有能であるかどうか、家臣たちには分からないと思います。」
則天武后はまた質問した。「婁師徳は人を見る眼力があると思うか?」
これに対し、狄仁傑は、「私と彼は同僚でありますが、彼に人を見る目があるとは未だかつて聞いたことがございません」と答えた。
則天武后は笑いながら「わたしがお主を宰相として用いたのは、婁師徳がお主を推薦したからである。誠に婁師徳には眼力があったものよ」と言うと、以前に婁師徳が狄仁傑を推薦した上奏文をついでに持ち出して狄仁傑に目を通させた。
狄仁傑はそれを目にした後、非常に己を恥じ入り、溜息をついて呟いた。「婁師徳はなんと徳の厚いお方であったか。私は彼の何を見てきたのか、彼という人物をまったく見抜けなかった。私は彼の足元にも及ばないではないか!」と言った。
文武両道
婁師徳は二十歳で科挙の試験に合格した。最初の任務は江都県の役人であったが、官吏としての政務上の業績が突出して良かった為、監察の御史の位まで昇進した。公元677年、チベット高原に住む吐蕃(とばん)の軍隊が唐王朝の国境地帯にまで侵入してきた為、唐の高宗皇帝は勇士を募った。婁師徳は文官の身分ではあったが軍隊に入り、吐蕃の軍を討伐する為、指揮官で宰相でもあった李敬玄の指揮下に入った。
しかし李敬玄は戦争に関して非常に無知だったため大敗を喫する結果となり、部下の大将さえ敵に捕らえられてしまった。このような差し迫った危険な状況の中で、婁師徳は残存の兵をかき集めると同時に吐蕃と会談し、利害関係についてよどみなく述べ、自身の雄弁の才能を発揮した。それにより敵の将軍を説得することができた為、危機はたちまち解消されたのだった。その後、婁師徳は監査をつかさどる殿中侍御史に任命され、河源郡の軍事を司る司馬の役職と開墾を取り仕切る仕事の両方の責務を任された。
その後、吐蕃の軍はもう一度国境を越えて侵入してきた。婁師徳が率いる軍隊は白水谷(現在の青海省湟源県南部)で連戦連勝、吐蕃の軍の攻勢の押さえ込みに成功し、婁師徳は将軍としての才能を示した。唐の高宗皇帝は婁師徳に武官職を授けた。当時の高宗皇帝は自らの手書きの勅令に「婁師徳は文武両道に長けた人物として、武官職を授けるがゆえ、これを辞するなかれ。」と記した。
則天武后の即位により時代は一時的に「武周」となった。婁師徳は戦においては将軍、朝廷においては宰相として、699年に七十歳で死去するまで非常に重用された。彼の死後、皇帝は婁師徳の卓越した功績を称える為、涼州都督の官職を贈り、堅固で揺ぎ無いという意味の「貞」を諡(おくりな)として贈った。
婁師徳は、唐王朝では数少ない文武両道の大臣だった。彼は唐王朝のためにずば抜けた貢献をしたことにより、唐の徳宗皇帝によって、房玄齢や杜如晦などの有名な大臣と同様、37人の名宰相ランキングに名を連ねた。
(文・劉暁/翻訳・夜香木)