中国の戦国時代(紀元前256年~紀元前251年)に遡り、秦の昭襄王(しょうじょうおう)に蜀郡(現在の成都市周辺)の郡守に李氷を任命しました。李氷は在任中に、成都市の北西に位置する都江堰の建設を主宰し、この水利工事により、四川省は2,000年もの間、天候と雨に恵まれ、洪水の被害を免れました。
数多くの古書が伝えられている中で、都江堰の他にも李氷に関する記録が多く残っています。
唐代の盧求の『成都記序』によると、李氷は蜀郡の郡守をしていた時、岩山を切り開いて水道を開通したため、川の中の龍を怒らせました。李氷は刀を持って川に飛び込み、龍を殺し、それ以来水害はなくなりました。(注1)
鄭朴の『蜀王本紀』にある明代の記録によると、李氷が蜀郡の郡守をしていた頃、洪水が頻発し、李氷は洪水を鎮めるために石でサイを5つ作ったという。成都市内に2匹埋め、1匹はどこかの橋の下に、2匹は川の中に、水妖怪を押さえていたため、地元では石サイ町と呼ばれています。(注2)
1973年に5つのうちの1つが発見されたそうです。成都城坊古跡記録によると、電信ビルを建設する時、石獣が出土したが、重くて取り出せなかったため、元の場所に残し、その上に建物の土台を作っていたという。(注3)当時は出土していませんでしたが、40年後の2013年に専門家によって発掘されました。それ以来、四川省は水害が絶えません。
5つの石サイは李氷の化身という説もあります。石サイが洪水を鎮めているというより、李氷が何千年も四川を守っているという人もいます。石サイが掘り出されたのは、天意かもしれません。神を信じないと神も人を守ってくれません。
都江堰も石サイも、成都市の西側の岷江に対応しており、成都市東部にある長江の水害に効くかどうかは言い切れません。
今年、特に重慶で発生した長江の洪水は、実は主に三峡ダムによって引き起こされたものです。これは四川省の歴史から話さなければなりません。
周王朝の時代、現在の四川省は古蜀(こしょく)と呼ばれていました。古蜀は、古代の蜀にあった国。東晋時代の地誌『華陽国志』にその歴史が詳しく記されているが、司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍司馬錯に滅ぼされたことが記されるのみであります。
古蜀の時代には洪水が氾濫し、蜀は四面を山に囲まれ、中央に盆地があり、水が流れ出ないようになっていました。蜀の宰相である鳖灵(ビー・リン)は民衆を率いて巫山を切り開き、水を盆地から流れるように導き、その水が現在の長江を形成したとされています。(注4)
中国共産党が政権を樹立した後、古人の知恵を蔑ろにし、長江に三峡ダムを建設して水を貯めました。雨季になると、洪水を放流するかどうか悩むところです。 放流すれば、下流の湖北省宜昌市、武漢市などの都市に水害をもたらします。放流しないと、増水した川の水が逆流して重慶市に水害をもたらします。
このように、近年の四川省や重慶市の洪水の原因はいろいろあるが、その主な原因は、中国共産党政権が建設した三峡ダムです。
注:
(注1)(唐)盧求『成都記序』原文:「後以李冰為蜀守。・・・大鑿岩崖,通沫水道。江之龍大怒,冰乃持刀入水與龍鬥,龍死,遂無水害。」
(注2)(明)鄭朴『蜀王本紀』原文:「江水為害,蜀守李冰作石犀五枚。二枚在府中,一枚在市橋下,二枚在水中,以厭水精,因曰石犀里也。」
(注3)劉孟伉『成都城坊古跡考』原文:「修建電訊大樓時,掘得壹石獸,因甚重,未能移出・・・乃留於原處,其上即為大樓基腳。」
(注4)(明)鄭朴『蜀王本紀』原文:「望帝以鱉靈為相。時玉山出水,若堯之洪水。望帝不能治,使鱉靈決玉山,民得安處。」
(文・黎宜明/翻訳・藍彧)