弦章と晏子
春秋時代、斉の国の晏嬰(あん えい、?―紀元前500年)は高徳で智恵者かつ忠言の上手い大臣でした。彼は人から晏子と呼ばれており、歴史上の斉の灵公、斉の庄公、斉の景公の時代の大臣でした。彼はどのような忠言をして斎景公に酒をやめさせ、行き詰まった状況を解決し、ひとりの良き大臣の運命を変えることができたのでしょうか。
ある時、斉の景公は昼夜を問わず七日間ぶっ通しで酒を飲んでいました。その間、酒に酔っていたばかりか、一切の政(まつりごと)を滞らせていました。大臣の弦章は心中非常に焦っておりました。切羽詰まって彼は宮殿に行き、斉の景公に決死の覚悟で忠言をした。「わが君主様は欲望の赴くまま七日間ぶっ通しで酒を飲んでいらっしゃいますが、どうかこれ以上酒を飲むのをやめていただきとうございます。もしどうしてもやめていただけないのなら、この私に死を命じてくださいませ。」この懇願を聞いた景公はかえって不機嫌になってしまいました。
晏子が宮殿に赴いて景公に面会すると、景公は晏子にこのような悩み事を相談しました。
「弦章は、わしに酒をやめろ、さもなければ死を命じろと申した。もし彼の言う通りに酒を飲むのをやめれば、君主が家来の命令に従うことになろう。かといって彼の言う通りにしなければ....わしは大事な家臣に死んで欲しくはない。どうしたらよいものか。」
晏子はすぐに、「弦章はわが君主様のような徳のある方に出会えてなんと幸運なことでありましょうか。もしも彼の君主が夏傑や商紂であれば、彼はとっくに殺されていたことでありましょう。」と答えました。
晏子の話を聞いた景公は悩み事がすっかり消えたかのように、気分が晴れたことで酒を飲むのをぴたりと止めたのでした。一方、弦章はと言えば死を覚悟の忠言が受け入れられたばかりか命を失わずにすみ、君主と大臣双方にとって最良の結果となったのですから、晏子はまったくもって立派な大臣であると言えます。
晏子の死後十七年経って、斉の景公の宮中では景公に対して利を求めるためのお世辞やこびへつらいばかりで、耳に逆らう忠言をする者はいなくなりました。ある日の斉の景公と大臣らとの宴会の席でも、大臣たちがするのは彼を持ち上げる話ばかりでした。弦章が景公のところへやって来ると、景公は弦章に向かって「章よ、晏子の死後、皆わしにへつらう者ばかりで心からわしの為を思って忠言をしてくれる者はいなくなったのう」と言いました。
十七年経過したことで、今度は弦章の忠言の腕前が上がり、まるで晏子の気風を受け継いだかのように「君主の好むものがあれば家臣はそれに順応するもので、君主の愛好する食べ物があれば、それを家臣も食するものでございます。」と言って、さらに具体的に例をあげて説明しました。「たとえば、シャクトリ虫のような昆虫は黄色い葉っぱや実を食べれば身体の色が黄色になりますが、もし青緑色の葉や実を食べれば青緑色に変わるのでございます。」
景公は敏感に悟って、「良いことを聞いた。わしはもう家臣の媚びへつらいやおだてには乗らないことにする。」と言いました。
『呂氏春秋』によれば、「失敗するのは自分のことがよく分かっていないからである。もしそうであれば存亡が危ぶまれるかもしれない。外に目を向けるのではなく、まずは自分のことをよく知ることが大事である。」と記されています。
しかしながら、自分のことを分かろうとするのは容易いことではありません。地位が高ければ高い者ほど自分の間違いを知ることが難しいため迷いに陥りがちです。ですから過ちを指摘してくれる家臣の忠言は大変貴重であるといえます。
また、直言する家臣は正しいと思うことを正直に言うことができるだけでなく、秩序正しく品行が良いなどの基準があります。自分のことを知りたいと思うなら他人の意見に耳を傾けるとよいということです。直言する家臣はやんわりと過ちを指摘し、相手の心に沁み入るような上手な是正をしてくれます。そんな大臣の言葉は貴重な宝であり、道徳の光となったことでしょう。
※出典:『晏子春秋』
中国語の原文:
『晏子春秋・內篇・諫上』:
景公飲酒,七日七夜不止。弦章諫曰:「君欲飲酒七日七夜,章願君廢酒也!不然,章賜死。」晏子入見,公曰:「章諫吾曰:『願君之廢酒也!不然,章賜死。』如是而聽之,則臣為制也;不聽,又愛其死。」晏子曰:「倖矣章遇君也!令章遇桀紂者,章死久矣。」于是公遂廢酒。
『晏子春秋・外篇・外篇下』:
晏子沒,十有七年,景公飲諸大夫酒。公射,出質,堂上唱善,若出一口。公作色太息,播弓矢。弦章入,公曰:「章!自晏子沒後,不復聞不善之事。」弦章對曰:「君好之,則臣服之;君嗜之,則臣食之。尺蠖食黃則黃,食蒼則蒼是也。」公曰:「善。吾不食諂人以言也。」
(おわり)
(翻訳・夜香木)