『孟子・告子下』には「天が地上の人に大任を下そうとするとき、まずその人の心を苦しめ、肉体を苦労させ、餓えに苦しませ、体を弱らせ、しようとすることをしくじらせる。それは人の心をゆさぶって忍耐を育て、それまでできなかったことを、できるようにさせるためである。」という文章がある※。しかし、心の苦痛、肉体の苦労、飢餓をすべて忍耐し、天から下される大任を全うできる人が、そう多くはないでしょう

 唐の宣宗・李忱は、元の名が李怡でした。その母の鄭氏はもともと鎮海節度使・李錡の召人(めしうど)でした。李錡の反逆が失敗した後、鄭氏は後宮に入れられ、当時の貴妃・郭貴妃の宮人(きゅうじん)として働きました。その後、唐の憲宗に見初められ、李怡を生みました。李怡は後に光王に封じられました。李忱は穆宗の弟であり、敬宗、文宗と武宗の叔父に当たります。 

 光王・李怡は愚かなふりをしていて、陰では間抜け呼ばわりされました。親族の宴会では、よく文宗などの皇族たちにからかわれていました。

 ある日、皇族たちの間で、李怡を最初に笑わせた人が勝ちという賭けをしました。しかし李怡は、宴会の最初から最後まで、ずっと無表情でいました。

 こんなに多くの皇族にからかわれていたから、もし光王が愚か者であれば、笑ってしまうでしょうし、もし光王が普通の人であれば、怒らないはずがありません。しかし光王は笑わずとも怒らず、終始、無表情でいました。光王は愚か者でもなければ、普通の人でもないとしか言いようがありません。

 会昌6年(紀元846年)、唐の武宗は、道士が献上した「長寿丹」という丹薬による中毒で崩御しました。光王・李怡は宦官により擁立され、即位しました。即位時に、名を怡から忱に改めて、年号を「大中(だいちゅう)」に改元しました。後の「宣宗」です。

 愚か者の皇帝を擁立すれば、朝廷を操ることができるという宦官や重臣の算段と裏腹に、宣宗は内政に力を注ぎ、国をよく治めようと努力しました。朝廷を乱していた李徳裕の一派を排除し、重臣による派閥闘争「牛李の党争」を終結させました。宣宗は36年間もとぼけているふりをしていたが、実は極めて聡明であることを、宦官、重臣、皇族たちはようやくわかったのです。

※『孟子・告子下』の中国語の原文:

「故天將降大任於是人也,必先苦其心志,勞其筋骨,餓其體膚,空乏其身,行拂亂其所為,所以動心忍性,曾益其所不能。」

(翻訳・常夏)