三仏寺奥院投入堂(イメージ:パブリック・ドメイン)

 鳥取県のほぼ中央に位置する標高900メートルの三徳山北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に、「投入堂(なげいれどう)」という不思議な木造建築物が建てられています。

 投入堂は、三徳山の三佛寺の奥院として、垂直に切り立った絶壁に建立され、日本建築史上、稀に見る特異的な建造物として高く評価され、国宝に指定されています。

 伝承では三徳山は706年(慶雲3年)に、伝説的修験者であり、山岳修行の祖とも呼ばれる役小角(えんのおづぬ)(※1)が修験道の行場として開いたとされています。

 三佛寺は、849年(嘉祥2年)、全国各地で様々な寺院を開山したと伝えられる慈覚大師円仁によって伽藍が建立され、阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来の三仏を祀ったのが開基とされ、「浄土院美徳山三佛寺」と号したと伝わっています。

 「投入堂」について、役小角が三徳山を訪れた際、法力でお堂を掌に乗るほどに小さくし、大きな掛け声と共に断崖絶壁にある岩窟に投入れたとの伝説があり、実際のところ、「投入堂」の建築法は未だ謎に包まれています。

 平成13年、奈良文化財研究所は年輪年代の測定によって、投入堂が平安時代後期(1086―1184)に建てられたと判明されました。

 奇想天外の伝説はさて置き、ここでは、慈覚大師円仁についてお話したいと思います。

 慈覚大師円仁(えんにん、794―864年)は入唐八家(※2)の1人で、最後の遣唐使として留学した人物です。838年、円仁は3回目の挑戦でついに唐への上陸に成功し、その後の9年余りにわたり、仏教聖地の五台山(山西省)や都の長安(現西安)などの各地を旅し、天台教学・密教を学びました。847年、円仁は584部802巻の経典、50種の仏画や法具、そして、修得した仏法を日本に持ち帰り、その後の日本の天台密教の振興に寄与しました。また、中国への9年6カ月にも及ぶ求法の旅を記録した「入唐求法巡礼行記」は晩唐の歴史研究をする上での貴重な史料として高く評価されています。

 実は、円仁が巡礼した五台山からあまり離れていない恒山(こうざん 山西省大同市)の断崖絶壁にも寺院が建てられています。それは有名な「懸空寺(けんくうじ)」です。

 懸空寺は5世紀末、北魏後期に造営された、仏教、道教と儒教の三つを一体化した独特の寺院で、三教殿には仏教、道教と儒教の三開祖の釈迦、老子、孔子の像が一堂に並んでおり、稀有な眺めとなっています。

懸空寺の全景( パブリック・ドメイン)

 懸空寺と比べれば、投入堂は規模が小さいのですが、切り立った断崖に建っているという意味で、懸空寺と投入堂はいずれも床下が長大な柱で支えられた、いわゆる懸造(かけづくり)をなしており、外観から見ても実によく似ているという印象を受けます。中国に長く滞在し、それに懸空寺の近くの山西省五台山に留学していた慈覚大師円仁の事を思うと、懸空寺と投入堂の両者の間には何等かの関係があるように思えて仕方ありません。

 残念ながら、三佛寺は何度も戦火に遭い、全焼してしまった事があり、伝説以外に創建に関わる資料は全く残っていないそうです。後は、我々の想像に委ねるしかありません。

 それにしても、なぜ、どのように、この険しい場所に寺院を建てたのか?と不思議に思うと同時に、修行僧たちの知恵の高さ、技術の凄さ、そして信仰心の強さに深く心を動かされます。

(※1)日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている人物
(※2)入唐八家は最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡の8人である

(文・一心)