長孫無忌(ちょうそんむき)、字は輔機 、本貫は河南郡洛陽県。唐の太宗の長孫皇后の兄で、元太子の李承乾、李泰及び唐高宗の李治の実のおじさんです。唐王朝の外戚にあたります。
長孫無忌は博学多才で、謀略もあり、少年の時は李世民と仲良くなりました。隋王朝の義寧元年(617年)、唐の高祖皇帝李淵は太原で起兵し、長孫無忌は李世民に協力しました。
武徳九年(626年)、長孫無忌は玄武門の変に参与し、李世民の即位に協力しました。貞観元年、吏部尚書に昇進、功績第一として斉国公に進封されました。太子左庶子、左武候大将軍、吏部尚書、尚書右僕射を歴任し、開府儀同三司の位まで昇り唐の元勲・外戚として礼遇を受けて内廷に自由に出入りできました。太宗の最も信頼の厚い大臣です。位は人臣をきわめて、議論を招きましたが、太宗は何度も無忌に対して信頼を表し、何度も恩寵を加えました。
貞観五年、太宗皇帝は長孫無忌などに「皇帝が賢明であれば、大臣は直言できると言われている。人は自分を正しく評価するのが難しいので、私の長所と短所を言ってほしい。」と言いました。
長孫無忌は「皇帝の戦功、礼儀と音楽によって国を治めた実績は、すべての帝王を凌駕しています。出された命令など、すべての方策がとても正しくて効果的で、皇帝には本当に何の落ち度もないですと思います。」と返答しました。
太宗は「自分の欠点を聞きたいのに、お世辞を言っているだけではないか。今日は皆さんの長所と短所を率直に議論して、これから戒めようと思う。言う人は間違っていても大丈夫です。聞く人は注意して直してください。」と言いました。
太宗はまた、
「長孫無忌は謀略があって、綿密な計画が得意で、反応と応答が速くて、古人でも彼にかなう人がいません。しかし、軍隊を率いて国を治めるのは彼の強みではないでしょう。
高士廉(こうしれん)は知識が豊富で、思考が敏捷で、困難に遭遇しても自分の立場を変えません。役人としては利益集団を作らないのも良い点です。欠けているのは大胆に意見を言い出せないことです。
唐倹(とうけん)は素直でさっぱりしていて、思いやりがあって、酒を好んで、思いなどをはっきりと話せます。3年間仕えてくれたが、国家の盛衰興亡(せいすいこうぼう)について一言も言っていませんでした。
楊師道(よう しとう)は性格が素朴で優しくて、それは悪くはないのですが、臆病で大事なことは何もできなくて、何事にも頼りや期待できないのです。
岑文(しん ぶん)の本性は誠実寛大で、文章を書く長所は経典を引用することに優れているので、理論ははっきりとしていて頭脳明晰です。
劉洎(りゅう き)の性格は最も堅実です。一般的な話は大体利益関係に関わるので、相手に何か企みがあったとしても、友人と約束すれば、彼はきっとなんとかして成功させますが、提唱するべきではありません。
馬周(ば しゅう)は物事を処理するのが速くて、非常に忠実で正直です。
褚遂良(ちょ すいりょう)は学問が少し良くて、性格も強靱で正直で、わりと私に親しんで頼っています。鳥のように人間に近づくなら、大切にするべきです。
人を識別と評価する能力については、率直に言って、私のほうがより強いです。」
と評価しました。
(出典:『太平広記』第16巻・知人)
(翻訳・藍彧)