イメージ:konohashi / PIXTA(ピクスタ)

 11歳のある日、私は父といつものように散歩に出かけました。

 近所の川辺にある葬儀場の正面を通った時、父は突然足を止めました。

 「今何時?」と聞いてきました。私は時計を見て、「10時25分です」と伝えました。
 そして、父は「何が見えるか」という不思議な質問をしてきました。
 「150人ほどの人々が葬儀場に入ろうとして並んでいるのが見えます」と私が答えました。
 父は「うん、そうね」とうなずいてから、他の話題に切り替えて、スポーツニュースについて話し始めました。
 
 30分近く経とうとしているのに、まだ葬儀場から離れていないことに気づいた私は「散歩を続けましょうか」と切り出しました。
 父は私の質問に答えずに、「今何が見える?」とまた変な質問をしてきました。
 「さっき入った人々が出てきました」。
 「大正解だ、今何時か見てみろ」。
 「10時50分です」。
 「そう、人の人生はそれだけの時間に集約されているんだよ」と父はしみじみに言いました。
 「何の時間ですか?お父さん、何を言っているのか分かりません」。

 「息子よ、お葬式で牧師が読み上げる弔辞はつまり人の一生を振り返っているのだ。弔辞を読むのはわずか20分くらいしかないけど、当時は大きな挫折や偉業と思われていた多くのことが、ただ取るに足りない些細なこととなり、この20分には入れられない。大人になってから、落ちこんだり、誇らしくなったりするとき、私の言葉を思い出してみてごらん、きっと目の前の道が広く感じるだろう」。
 
(翻訳・藍彧)