イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860―1941)(イメージ:Wikimedia Commons / パブリック・ドメイン)
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)は19世紀後半から20世紀初頭にかけて世界を代表するピアノの巨匠の一人であると同時に、ポーランドの首相と外務大臣も兼務していた。プロの音楽家としてここまで高い官職につけたのは初めてだった。
ポドリアの小さな村に生まれたパデレフスキは、音楽への情熱を持って育ち、後にワルシャワ音楽院で教鞭をとり、25歳の時に初のソロコンサートを行った。彼のピアノ演奏は、抑揚頓挫のある独特の魅力に満ちた艶やかな音色を持っている。彼は「感情の起伏で心臓の鼓動の速さが違うのと同じだ」とその表現力を心でたとえ、ショパンのように「心」から演奏したのだ。情熱的でドラマチックな演奏スタイルは聴衆から絶大な支持を得て、ショパンに次ぐポーランドの偉大なピアニストの一人とされていた。1936年の映画「月光のソナタ」では主役を演じ、1992年にはポーランド政府がパデレフスキの名のもと、額面200万ポーランドドルの紙幣を発行した。しかし、これらの輝かしい経歴以外に、パドレフスキはその善意でポーランドを救ったことで最もよく知られている。
1891年、パデレフスキはアメリカをツアーした。スタンフォード大学は彼をキャンパスに招いて学内コンサートをしてもらいたいと考え、学生代表がパデレフスキの代理人と交渉し、2千ドルの出演料で合意した。その後、生徒会が募金をしたが、1600ドルしか集まらなかった。本番前日、学生代表はパデレフスキのもとに来て、借用書とともに「必ず残りのお金を一刻も早くお返しできるように方法を考えます」と熱意を伝えた。パデレフスキはその場で借用書を破り捨て、「あなたたちが愛している音楽のために、ただで演奏します。学生にお金を返してください」と言った。学生代表はこれを聞いて大変感動した。
パデレフスキは28年後にポーランドの首相に選ばれた。その頃、ポーランドは困窮に陥り、衣食住不足が深刻で、助けが必要だった。米国はすぐに数千トンの食糧を支援することを決め、その後、多くの国が支援に名乗り出た。
パデレフスキは当時のアメリカ大統領に会い、率先して支援してくれたことに感謝の意を表した。大統領は微笑みながら、「これが我々のすべきことだ。覚えていないかもしれませんが、私は忘れていません。あなたをコンサートに招待するためのお金が足りなかったときに、私たちに寛大にしていただけたこと」と言った。なんど、当時のアメリカ大統領はスタンフォード大学からコンサートの交渉に行った学生代表の一人だったのだ。
イグナツィ・ヤン・パデレフスキによるフランツ・リストが作曲した『ハンガリー狂詩曲』※の第2番:
※ハンガリー狂詩曲 (S/G244, R106)(英語:Hungarian Rhapsodies)はフランツ・リスト(Franz Liszt)がピアノ独奏のために書いた作品集である。全19曲存在する。第2番( S.244/2)は有名である。(ウィキペディア)
(文・梅媛/翻訳・藍彧)