1974年(昭和49年)、佐藤栄作に贈られたノーベル平和賞の金メダル。国立公文書館所蔵(請求番号:寄贈01854100)(イメージ:Wikipedia/Awalin CC BY-SA 4.0

一、「自然の女神」の表情が悲しげに見える?

 ノーベル賞のメダルの表面には各賞共通のアルフレッド・ノーベルの横顔の肖像がデザインされていますが、裏面のデザインは、賞によって異なります。中でも、「物理学賞」と「化学賞」、つまり「自然科学」の裏面は共通で、そのデザインはとても「意味深長である」と物理学者の志村史夫氏(※1)は言いました。

 「自然科学」賞のメダルの裏面を見ると、左側にベールをかぶった自然の女神、NATURA(ナトゥーラ)が立っており、その右側にいる科学の女神、SCIENTIA(スキエンティア)が、右手を伸ばし、自然の女神のベールを持ち上げ、素顔をのぞき込む姿が浮き彫りされています。

(著作権の問題により、「自然科学」賞のメダルの裏面のイメージは掲載しておりません。ご覧になる場合には下記のリンクをクリックして下さい。

http://scarc.library.oregonstate.edu/coll/pauling/awards/1954h2.1-reverse.html

 志村史夫氏は自らの評論「科学の限界」の中で、メダルのデザインについて紹介した後、次のような記述がありました。

 「自然」というものはベールをかぶっていて、なかなか本当の姿を見せたがらないものだ。まさしく「科学」は好奇心から、そのベールをまくって「自然」の素顔を見ようとする行為なのである。ノーベル「自然科学賞」のメダルには、「科学」の本質が、実に象徴的に描かれているように思われる。

 ここで、科学者の端くれとしての私が少々気になるのは、「科学の女神」によってベールをまくり上げられている「自然の女神」の表情が悲しげ、迷惑げに見えることである。どう考えても、私には「自然の女神」が喜んでいるように思えない。

 実は、このメダルを手にした物理学者の朝永振一郎氏(※2)は「うっかり女性のベールをめくったりすれば、大変失礼だって叱られるのと同じように、科学が自然に対してしていることは、ある意味で自然に対する冒瀆とも言えるわけです」と語っている。

 志村史夫氏は何故「自然の女神」の表情が悲しげ、迷惑げに、喜んでいないように見えてしまい、そして、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者の朝永振一郎氏は何故、科学が自然に対する「冒瀆」という厳しい言葉を使ったのでしょうか?

二、自然を探求する古代の科学があるか?

「科学が人間の創造物である限り、それで自然のすべてを知ることは不可能なのである」と志村史夫氏は言っています。

 周知しているように、スペクトルの中で、人間は赤から紫までの可視光の部分しか見えず、それを超える一定の範囲内であれば、測定機器で測定できても、さらに遠く離れて行けば、人間にとって全く未知の世界になります。

 音も同じです。人間が聴こえる音声の振動数は20〜2万ヘルツの間だと考えられおり、それを超えると、人間には聞こえません。つまり、人間が見えない、聞こえない自然界は無限に存在するのです。

 アインシュタインは次のように言っています。

「現代科学に欠けているものを埋め合わせるものがあるとすれば、それは佛教である」   
「If there is any religion that would cope with modern scientific needs it would be Buddhism.」

 太古の昔から人類に伝えられてきた自然を探求する科学があります。それは佛法修煉です。

坐禅中の修煉者(イメージ:明慧ネット)

 修煉者は佛法の指導の下、坐禅や瞑想を通じて、自らの道徳感、心性を高め、行動を厳しく律することによって、誠実で、善良で、寛容で、平和な人になることを目指します。そして、智慧を開き、悟りを開き、少しずつ人生と宇宙の奥義を洞察できる自在な境界へと到達して行くのです。佛法修煉は自然、宇宙、生命を解き明かすもう一つの道を開いてくれているのです。

※1 志村 史夫(1948年7月19日 〜)は、日本の物理学者、静岡理工科大学名誉教授、応用物理学会フェロー終身会員、日本文藝家協会会員。
※2 朝永 振一郎(1906年3月31日 〜 1979年7月8日)は、日本の物理学者。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によって、1965年のノーベル物理学賞を受賞した。

(文・一心)