(イメージ:Wikimedia Commons/Martin Falbisoner CC BY-SA)
一、貨幣のデザインとなる美しい鳳凰
鳳凰は中国神話の中の瑞鳥で、梧桐(あおぎり)に棲み、竹の実を食べ、醴泉(れいせん)を飲み、五色絢爛な羽を持ち、声は五音を奏で、世の中が平和で瑞気に満ち溢れ、聖徳の天子が現れる前兆として姿を現すと言われています。
飛鳥時代に中国から日本に伝来したとされる鳳凰は、日本の寺院の彫刻や壁画に登場し、民間の装飾やシンボルとしても使われていました。現在流通している10円硬貨の裏側には平等院鳳凰堂、1万円札の裏側に平等院鳳凰堂の屋根に据えられている金銅鳳凰が描かれており、それらは日本で最も有名な鳳凰ではないでしょうか?
二、鳳凰の伝説
中国では、古くから鳳凰は天下太平を兆す霊鳥と見なされています。前漢代初期の地理書『山海経』に、鳳凰の頸には「徳」、翼に「義」、背に「礼」、胸に「仁」、腹に「信」の紋があると記されており、鳳凰は仁、義、礼、智、信の五徳を備え、社会の安定と調和を維持する力を持つ霊鳥だと信じられていました。また、鳳凰の頭は空、目は太陽、背中は月、翼は風、足は地球、尾は惑星に当たるとの言い伝えもあり、鳳凰はこの世と天上を繋ぐ鳥であるとも考えられていたようです。代々の王朝においては、鳳凰は道徳と知恵の象徴とされ、民間においては至福、吉祥、繁栄のシンボルとされていました。
一方、西洋では鳳凰は神の鳥、火の鳥、不死鳥と呼ばれています。神話や伝説の中では、鳳凰は寿命を迎えると、燃え上がる炎に自ら飛び入って燃え尽きるのですが、再び蘇って来ることから、復興、再生、永遠の命を象徴する貴祥な霊鳥と見なされています。
三、翼を広げた形になった鳳凰堂
平安時代後期に、日本では末法思想が広く信じられていました。当時、天災・人災が続いたため、人々の不安は一層強まり、不安から逃れ、極楽浄土への願いを込めて、皇族や貴族達は盛んに寺院を造営しました。
1052年(永承7年)、藤原頼通は宇治の別荘を寺院に改め、1053年、阿弥陀如来像を安置する阿弥陀堂を建立しました。阿弥陀堂は裳階(みこし)のある中堂から左右に広がる翼廊(よくろ)は鳳凰が翼を広げた形に似ていること、屋根の両端に一対の金銅鳳凰が据えられていることから、江戸時代には鳳凰堂と呼ぶようになったとのこと。
人々は希望、復興、幸運等、様々な思いを込めて、阿弥陀堂のデザインを鳳凰の形にし、そして金銅の二羽の鳳凰を製造し、その屋根に据えたのではないでしょうか。
平安時代後期の京都では、寺院が相次いで建設されました。しかし、1020年に建立された無量寿院、11世紀後半から12世紀に建てられた六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)は、いずれも兵乱などにより廃絶しました。平等院も度々兵火や災害に見舞われ、多くの堂塔が廃絶の憂き目に遭いましたが、鳳凰堂だけが奇跡的に災害を免れ、存続しています。それは貴祥な霊鳥、即ち鳳凰が運んでくれた幸運のおかげだったのでしょうか。
現在、新型コロナウイルスは中国の武漢から感染が始まり、日本を含む全世界に広がり、猛威を振るっています。感染者や死者が多数出ている不安なこの世の中に、復興と希望、幸運を象徴する鳳凰が再び翼を広げ、奇跡を見せてくれることを期待せずにはいられません。
(文・一心)