2025年3月、中国の四川省と重慶市で、24時間の間に3回の地震が立て続けに発生しました。震源は異なるものの、いずれも同じ地域に集中しており、揺れの規模も次第に大きくなっていました。一連の地震により、地域住民の間では不安が広がり、一部の人々は2008年の「四川省大地震」の記憶が頭をよぎったとのことです。親しい家族を亡くした悲しみと、中国共産党のずさんな災害対応に対する怒りが、未だ深い傷として人々の心に残っていることが改めて浮き彫りとなりました。
連続地震で蘇る記憶
中国メディアの報道によると、最初の地震は3月17日午後9時29分に重慶市で発生し、マグニチュードは3.0でした。さらに、3月18日午後3時19分には四川省アバ・チベット族チャン族自治州の汶川(ぶんせん)県でマグニチュード3.1の地震が発生しました。汶川という地名が報道されると、SNS上では「胸がドキッとした」といった反応が見られました。というのは、汶川は2008年にマグニチュード8.0の大地震が発生した震源地であり、多くの中国人にとって特別な意味を持つ地名だからです。
そして同日午後7時20分には、四川省内江市でマグニチュード3.9の地震が起きました。現地住民によると、今回の揺れは広い範囲で感じられ、成都市と近隣の市区町村など多くの地域で強い揺れが確認されました。「家のシャンデリアが揺れた」「スマートフォンの緊急地震速報が鳴り止まなかった」との声も寄せられています。
中国地震局のデータによれば、今回の震源から半径200キロ圏内では、過去5年間にマグニチュード3以上の地震が169回発生しています。なかでも最大のものは、2022年9月5日に四川省カンゼ・チベット族自治州で発生したマグニチュード6.8の地震で、今回の震源からわずか224キロの距離でした。
永遠に残る「5.12」の傷
四川省の地震と聞いて、多くの人が真っ先に思い出すのは、2008年5月12日に発生した「四川大地震」ではないでしょうか。震源は、成都市からおよそ79キロ北西の四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県で、マグニチュードは8.0を記録し、中国国内外を震撼させる大災害となりました。
中国民政部が当時発表した公式データによると、2008年9月25日までに確認された死者は6万9,227人、負傷者は37万4,643人、そして行方不明者は1万7,923人でした。
しかし、民間団体「巴蜀同盟会」が行った独自調査では、実際の死者数はおよそ30万人に上る可能性があり、そのうち3万人以上が学生で、しかも多くは幼稚園や小学校の子どもたちだったとしています。
この地震でとりわけ注目を集めたのは、大量の校舎が倒壊した原因とされている「おから工事」でした。たとえば、綿竹市の富新第二小学校では、校舎が崩壊し、127人の生徒が犠牲になりました。子どもを失った親たちは十数年にわたって抗議や陳情を続けてきましたが、政府からの説明は一切ありませんでした。多くの家族が深い悲しみと心の傷を抱え、多くの人がうつ病になったとのことです。
真相究明活動が「国家反逆罪」に
政府機関が真相究明を怠る中、四川省の人権活動家・譚作人(たん・さくじん)氏は、公民調査プロジェクトを立ち上げ、校舎倒壊の真相解明を試みました。香港メディアの取材に対し、譚作人氏は「四川省大地震は中国の歴史における重大な転換点だった」と述べています。
譚作人氏は、中国共産党が、犠牲となった学生の遺族らによる正当な訴えを「社会の不安定要素」として封じ込めたことを厳しく批判しました。そして、「おから工事の責任追及なくして、震災後の復興を語ることはできない」と強調しました。
譚作人氏は地震発生後、被災地に20回以上足を運び、犠牲者の保護者らを対象にアンケートを実施しました。四川省大地震の震源地は龍門山断層の上に位置していました。断層の存在を認識していた現地政府は学校の校舎について「小さな地震では亀裂が入らず、中規模の地震で倒壊せず、大地震が来ても崩れない」という耐震基準を定めていたとのことです。
実地調査を合わせて行った結果、多くの校舎が明らかに耐震基準を満たしていないことが判明しました。施工不良や資材の手抜きといった「おから工事」が横行し、壊滅的な倒壊に繋がったのです。壊滅的な倒壊が発生した約20の学校において、生徒の死傷率は85%に達していました。
しかし、中国当局は「おから工事」の原因究明をしないばかりか、2010年2月、譚作人氏を拘束し、「国家政権転覆扇動罪」の濡れ衣を着せて懲役5年の実刑判決に処しました。
判決文では、譚作人氏の貢献について一切考慮されませんでした。判決の理由として挙げられていたのは、天安門事件の追悼式典へ出席したことや、市民運動に参加したことでした。
反故にされた政府の約束
四川省大地震から1年後の2009年、西側メディアは続々と「おから工事」の実態を報じました。
アメリカのメディア《ボイス・オブ・アメリカ》の記者が四川省什邡(しゅうほう)市の湔氐(せんてい)中学校を取材したところ、1992年に建てられた校舎は地震でほぼ全壊し、遠目に見ると砕けたビスケットの山のようだったといいます。対照的に、校舎の近くにある1960年代に建てられた古い建物は、いずれも無傷のままでした。現地のベテラン教員は取材に対し、「1992年の建物があのように無惨に崩れたのに、1960年代の建物は無事だった。例えば、大躍進時代に建てられた倉庫は倒れなかった」と証言しています。
オーストラリアの《シドニー・モーニング・ヘラルド》紙は、一部の市町村では、一般家庭の子どもが通う学校は軒並み倒壊したが、政府の庁舎や幹部の子どもが通う学校は無傷だったと報じました。
アメリカの《ロサンゼルス・タイムズ》は、清華大学の専門家が行った建築調査の結果を紹介しました。それによると、調査した384棟の建物のうち、修復不能な損壊を受けた学校建築は44%だったのに対し、政府系建物はわずか13%だったとのことです。
地震直後、当時の首相だった温家宝氏は「手抜き工事の徹底調査と責任追及」を約束しました。しかし3年後、彼が再び被災地を訪れた際には、以前の約束に言及することはなく、「震災の復興は決定的な勝利を収めた」と発言しました。
四川省什邡市では、一部の保護者が「学校責任保険」の制度に基づき、裁判所に対して損害賠償と責任者の追及を求めて民事訴訟を起こしました。しかし、裁判所は訴訟案件を全て却下し、文書による正式な説明もないまま、「地震に関する訴訟はすべて受け付けない」と口頭で回答しました。
そして今、四川省や重慶市で地震が相次ぐなか、人々の記憶は再び2008年のあの惨劇へと引き戻されています。人々を襲うのは、愛する者を失った痛みだけではありません。真実を知る権利が奪われ、正義が果たされないという現実が、いまだ多くの人の心を震わせ続けているのです。
(翻訳・唐木 衛)