中国は古来より「神州」と称えられてきました。神様は、中華の大地の山川や明君と賢臣を慈しみ、この土地に数多くの神の跡を残しました。古典書物を紐解けば、帝王から庶民に至るまで、神様の加護を受けたことがわかります。宮廷においても市井においても、神様の姿は至るところに見られます。
五千年の歴史の中で、数多くの神医が現れました。彼らが神通力を使って病気を治すという奇跡的な話が、歴史書に数多く記されています。例えば、華佗(か・だ)、扁鵲(へんじゃく)、孫思邈(そん・しばく)、李時珍(り・じちん)といった人々は、優れた医術だけでなく、人間の体の表面から内部の病の原因を見抜くような不思議な力を持っていました。元王朝期(1271年 – 1368年)には、徐文中(じょ・もんちゅう)という神医がおり、彼は病気の治療だけでなく、道術を使って風を呼び雨を降らせることもできました。
天下を遍歴する鍼灸の神医
元王朝期に安徽省宣州(現在の安徽省宣城市)で生まれた徐文中は、神医として知られていました。彼の岳父は地元で評判の高い名医でした。岳父は、聡明で素直、そして学ぶことに熱心な徐文中に、自分の医術を惜しみなく伝授しました。数年も経たないうちに、徐文中は岳父と同じように人々の病気を治せるようになり、さらに多くの方面で岳父を超えるようになったのです。特に鍼灸の技術は卓越しており、多くの難病を数回の鍼治療で治癒できたと言われています。
徐文中は普段、各地を巡りながら医術を施していました。金銭には全く執着せず、官職にも興味を示しませんでした。かつては県吏に推挙されたこともありましたが、煩雑な公務に耐えられず、ひっそりとその職を辞しました。また、安陸府の府吏に推挙されたこともありましたが、官僚組織の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)に嫌気がさし、まもなく別れも言わずに立ち去り、再び医術の道を歩むことになったのです。
徐文中は、呉郡(現在の江蘇省一帯)を巡回中に、リウマチで寝込んで苦しんでいる大富豪の家を訪れました。徐文中の噂を聞きつけた富豪は、彼に治療を依頼しました。徐文中は、薬を処方する代わりに、患者の足に数本の鍼を刺すだけで、病人は奇跡的にベッドから起き上がり、歩けるようになりました。この噂は瞬く間に呉郡中に広がり、徐文中に治療を求める人々が絶えませんでした。徐文中の優れた医術に感心した呉郡の役人は、彼に郡吏の職を依頼し、徐文中はこれを拒むことができず、結局その職に就きました。
鎮南王妃を救った奇跡の話
その頃、広陵(現在の江蘇省揚州市)に住んでいた鎮南王の王妃が病気に倒れ、起き上がるのもままならない状態でした。王府の御医たちは皆、手の施しようがなく困っていました。そこで、朝廷の大臣が鎮南王に徐文中のことを推薦しました。鎮南王はすぐに人を派遣し、急ぎの馬で呉郡まで徐文中を迎えに行かせました。徐文中は鎮南王府の便殿(びんでん)に招き入れられ、丁寧にもてなされ、王妃の病状について詳しく聞かされました。そして、王妃を診察するために屋内に連れて行かれました。
徐文中が箱から長短さまざまな銀針を数本取り出すと、鎮南王は不安そうに「王妃の病気を治して頂けるのでしょうか?」と尋ねました。
徐文中は落ち着いた様子で「私がここに来たのは、王妃に針を刺して治療するためです。もし病気を治せないのであれば、私がここに来る意味はありません」と答えました。
徐文中は、王妃に手足を挙げてみるようにと促してみました。王妃は試してみたものの、全く動かすことができませんでした。そこで徐文中は、王妃の合谷(ごうこく)と曲池(きょくち)というツボを押さえ、ゆっくりと銀針を刺していきました。王妃は全く痛みを感じませんでした。
しばらくして、徐文中は再び王妃に手足を挙げてみるように促しました。王妃は「できません」と遠慮がちに言いましたが、徐文中は「鍼の気が巡り始めたので、少し手を挙げてみても大丈夫なはずです」と声をかけました。王妃は試しに手を挙げてみると、驚くほどスムーズに動かすことができました。足も同様に、楽に挙げることができました。鎮南王はそばで息をひそめてその様子を見ていましたが、王妃の手足が動くのを見て、とても喜んだそうです。翌朝には、横たわっていた王妃は座ることができるようになりました。
鎮南王は盛大な宴を催し徐文中を労い、多くの銭財も与えました。以来、徐文中の評判は広陵城中に広がり、人々は皆「扁鵲の再来だ」と噂しました。
風と雨を起こす神跡
王妃の一件で、鎮南王は徐文中に深く信頼を寄せるようになりました。ところが、広陵地方では長い間、雨が降らず、鎮南王は雨乞いの祈祷師を招きましたが効果はありませんでした。干ばつが日に日に深刻化する中、鎮南王は大変な心配を抱えていました。
徐文中は鎮南王がそのことで悩んでいると聞き、「鎮南王様、私にお任せください。法術を使って雨を降らせましょう」と言い、そして冗談まじりに「雷鳴を雨の前と雨の後、どちらにしますか?」と尋ねました。
鎮南王は、徐文中は医術がとても優れていることは知っていましたが、彼が法術を使うという話は聞いたことがありませんでした。そこで、鎮南王も冗談まじりに「そうですね、雷鳴を雨の後にしましょう」と言いました。
徐文中は「わかりました」と答え、部屋から出て、そして北西の方角に向かって袖を一振りすると、晴天だった空が一瞬にして黒雲に覆われ、豪雨が降り始めました。雨は広陵全体をあまねく潤した後、徐文中は法術を止めて、雨が降り止みました。そして雨上がりの空には雷鳴が響き、再び太陽が顔を覗かせました。
各地を巡り医術を施していた徐文中に、風雨を操る力があるとは、誰も予想していませんでした。その神業を目の当たりにした鎮南王は、彼を凡人として扱うことは到底できなくなりました。
神医の「秘訣」
徐文中は広陵に滞在している間、多くの患者が彼の治療を求めて集まり、多くの人々が彼に命を救われました。その後、徐文中は広陵から武林(現在の浙江省杭州市)へ移住しました。間もなく呉郡の郡守が重病に陥り、郡の医師たちから招かれました。徐文中が到着すると、わずか数日で郡守の病気は回復しました。
徐文中はいつも、このように語りました。
「私は多くの弟子を育てましたが、彼らの医術は私ほど効果を発揮しません。それは私が秘術を隠しているからではなく、彼らが利益ばかりに目がくらみ、道義を忘れてしまったからなのです。私は40年以上、各地を巡りながら医術を施してきました。私の治療を受けた人は数えきれないほどいますが、私は決して見返りを求めたことはありません。ただ、自分の能力の限りを尽くして、人々の病気を治すことに専念してきたのです」
徐文中の高い道徳心は、彼の医術を卓越したものとし、さらには自然現象すらも操るほどの力をもたらしました。現代の中医や漢方医学がかつてのような神秘的な力を失いつつあるのは、徐文中の指摘するように、利益至上主義に陥り、道徳を軽視しているからでしょう。私心を捨て、見返りを求めずに人に尽くし、道徳性を高めることで、中国の伝統文化の真髄を悟ることができるでしょう。
(文・雲中君/翻訳・宴楽)