趙英さんはごく普通の中国人女性ですが、自らの経験を通して、中国共産党の本質に気づくことができました。幼少期の貧困や一人っ子政策の痛み、さらには歴史を深く学び現実を観察する中で、共産主義体制が人間性、自由、そして尊厳をどれほど破壊しているかを実感しました。現在、趙英さんはカナダに移住し、新たな人生を歩んでいます。
大飢饉の悲劇と父親の苦しみ
趙英さんは中国の三年間の大飢饉について語るとき、声に重みがこもりました。「私の故郷である安徽省肥西県では、村の至る所に『全滅した家』がありました」と彼女は言います。ここでいう「全滅した家」とは、家族全員が飢えで亡くなった家を指します。
「父の叔父さんやいとこたちは、その数年間で全員亡くなった」と趙英さんは語ります。当時、彼女は父親に対し、「どうして助けに行かなかったの?」と尋ねました。すると父親はため息をつきながら、「自分たちの命を守ることで精一杯だった」と嘆きました。
趙英さんの祖父は地主だったため、故郷で差別を受けました。祖父は家族が送るわずかな食糧配給券で日々を凌いでいたそうです。
「父は毎月末、祖父に食糧配給券を届けに行った。でも、村の人々は祖父を見ると避けて通っていた。その冷たさと恐怖は、共産党がもたらしたのだ」と趙英さんは言います。
読書で隠された真実を知る
趙英さんが真実に目覚めたきっかけは、歴史書を読むことでした。彼女は、1960年代の中国の大飢饉を描いたノンフィクション作品や、さらには文化大革命に関する様々な研究文献を読み、隠された歴史の断片をつなぎ合わせました。
「本に書かれた事実は私を震撼させ、怒りを覚えた。共産党は嘘で歴史を塗り固め、暴力で真実を隠していた」と彼女は言います。
趙英さんは、三年続いた大飢饉での実際の死者数や、文化大革命の時代に多くの知識人がたどった悲劇を学びました。特に作家・老舎(ろうしゃ)の自殺の話は、彼女の心を強く打ちました。
趙英さんは、「老舎は紅衛兵に批判され、心身共に疲れ果てていた。家に帰って妻と子供に扉を開けてもらおうとしたが、『反省しなさい』と言われ、家に入れてもらえなかった。そこで老舎は北京の太平湖のほとりに一晩座り込み、夜明けに身を投げた」と語りました。
趙英さんはため息をつき、「文化大革命では、人々が家族さえ助けられない状況に追い込まれた。信頼も同情もなく、恐怖だけが支配していた。これを人間性の破壊と言わずに何だというのか」と指摘しました。
趙英さんは、「その時から私は一つの習慣を身につけた。すなわち、共産党が言うことは、すべて逆に考えるようにしたのだ。このように思考することで、私は少しずつ洗脳から抜け出すことができた」と言いました。
一人っ子政策で子どもを失う
趙英さんは今でも強制妊娠中絶の苦しみを忘れることができません。
「私が初めて妊娠したとき、出産許可証はあったが、許可証に書かれた出産可能な日付は、私の出産予定日の後だった。そのため、私は妊娠中絶手術を受けることを強制された」と趙英さんは振り返ります。
当時、趙英さんは妊娠4か月でした。医師は「共産党の政策により、あなたはこの子供を産むことはできない」と冷たく言い放ちました。「その瞬間、自分は機械であるかのように感じた」と彼女は語りました。
その後、彼女は再度妊娠することができましたが、第一子を産み終えると、彼女は避妊具を装着され、二人目の子供を産まないという誓約書に強制的に署名させられました。さらに、3か月ごとに病院で超音波検査を受け、妊娠していないことを証明するよう命じられました。
息子に対するいじめ
趙英さんの息子は、彼女がSNSで発言した内容が原因でいじめに遭いました。
「香港で逃亡犯条例に反対する運動が起きていた頃、私はWeChatのグループで、『香港の学生は自分たちの故郷を愛している。彼らは役に立たない青年ではない』と書き込んだ。それをきっかけに、チャット内では私に対する攻撃が始まった。彼らは私を『非愛国者』と非難した」と趙英さんは振り返ります。
さらに、その影響は息子にも及びました。「他の親たちは自分の子供に対し、私の息子と遊ばないように言った。息子の目の前で『君のお母さんは悪い人だ』とまで言っていた」とのことです。
息子が一人で遊ぶ姿を見て、彼女の心は張り裂けそうになりました。息子から「どうしてみんな僕を無視するの?」と聞かれたことをきっかけに、趙英さんは移民を決意しました。
「私は共産党による政治的迫害を経験したが、息子にはそれを味わわせたくない。カナダへの移民は、息子に自由な未来を与えるための選択だ」と趙英さんは語りました。
コロナ禍と家族の崩壊
新型コロナウイルスの期間中、趙英さんはある発言が原因で政府の監視対象になり、家族関係にも深刻な影響を及ぼす結果となりました。
「ある日、私が役所で手続きをしていた際、『私は共産党員ではないので、共産党を擁護する必要はない』と言ってしまった。その時、周囲の職員に取り囲まれ、まるで私がとんでもないことを言ったかのように、皆が私を睨みつけていた」と趙英さんは語りました。
この発言により、趙英さんは政府の「重点監視対象」となり、夫にも影響が及びました。夫が働く国有企業にも通知が届き、上司からは妻の「政治的態度」に注意を払うよう指示されました。「夫は帰ると機嫌を非常に悪くし、私の一言が彼を危機に陥らせたと考えた」と趙英さんは話しました。これをきっかけに夫婦の関係は悪化し、最終的に離婚に至りました。
「夫は私に『政府役人に謝罪しろ』と言ったが、私は拒否した。自分の尊厳を捨てて共産党体制に迎合することはできなかった。結局、この抑圧的な体制が私たちの結婚を壊したのだ」と趙英さんは語りました。
共産党脱退活動を支持
趙英さんは、中国共産党から脱退する活動を支持しており、自らも実名で脱党を表明しました。「私はかつて赤いスカーフを着けていたが、幸いなことに共産党青年団や共産党そのものに加入することはなかった。共産党やその関連組織からの脱退を表明することは、この体制との決別を象徴するものだ」と語っています。
彼女は中国にいた頃も、息子に対し「絶対に少年先鋒隊や共産党青年団に入らないように」と強く言い聞かせていました。
趙英さんは、脱党活動を「精神的な覚醒」と位置づけると同時に、共産党体制の崩壊を促進する重要な一歩だと考えています。「すでに4億人以上が共産党やその関連組織から脱退している。これは中国人の目覚めの始まりだ。脱退する人数が十分に大きくなれば、共産党は崩壊するだろう」と語っています。
2024年1月、趙英さんは中国を離れ、カナダへ移住しました。そこで彼女は志を同じくする仲間たちと出会いました。
「私たちには共通の目標がある。それは、共産党を倒し、中国に自由と民主主義を取り戻すことだ」と彼女は語ります。
趙英さんは、独裁体制はいずれ歴史によって淘汰されると信じています。そして「私の願いは、共産党の終焉を目にすることだ」と語りました。
彼女はさらに、「真の強さとは、嘘や暴力ではなく、自由と法の支配に基づいている。そのような日が必ず来ると信じている」と話しました。
(翻訳・唐木 衛)