ここ数年、ますます多くの中国人が海外移住しており、その中には富豪や中産階級、さらには一般市民も含まれています。このような動きはしばしば、中国共産党の圧政に対する「ソフトな抵抗」と見なされています。
中国の歴史において、民衆の「逃亡」は常に統治者への否定を意味してきました。事実、1949年に中国共産党が政権を掌握して以降、文化大革命のような政治運動の度に大規模な国外脱出が起こりました。そして現在、中国経済の急激な悪化と高圧的な統治を背景に、新たな大逃亡の波が巻き起こっています。
香港が最大の逃亡先
中国情勢に詳しいジャーナリストの郭君氏によれば、現在の香港の人口は約700万人で、そのうちおよそ3分の2は中国本土から逃れてきた人々とその子孫です。1945年の香港の人口は60万人でしたが、1949年には180万人、1950年には220万人に急増しました。増加した人口の多くは、中国共産党の迫害を避けるために香港へ逃れてきた人々でした。
中国からの「逃亡」には、二つの意味があります。一般的に「逃亡」という時には、正式的な身分証明書やビザを取得して合法的に出国することを意味します。一方、限定的な意味での「逃亡」とは、密航を指します。一般的な意味での逃亡は1949年から始まりました。当時、中国共産党は中国本土の大部分を掌握し、迫害を避けるため、上海の資本家たちが大量に移民として香港へ逃れました。いわゆる「資産の引き揚げを伴う移民」です。また、資産家の李嘉誠(リ・カセイ)、小説家の張愛玲(アイリーン・チャン)や金庸(きんよう)、さらには香港行政長官の林鄭月娥(キャリー・ラム)や董建華(とう けんか)の父親、俳優の周潤発(チョウ・ユンファ)の父親など、著名人の多くも中国本土からの逃亡者です。
密航は1950年以降に始まりました。香港は中国本土に隣接し、交通の便が良いことから、密航者が増えました。例えば、香港紙「蘋果日報(アップルデイリー)」の創業者である黎智英(ジミー・ライ)氏は、1960年代に密航した人物の一人です。あまりにも多くの人々が香港へ密航したため、1950年代には香港政府が中国人の密航を制限する特別措置を導入しました。それでもなお、中国共産党が政治運動や弾圧を行うたびに、次から次へと中国人が逃亡していきました。例としては、1960年頃の大飢饉や1989年の天安門事件が挙げられます。
郭君氏は、1960年の大飢饉の際に、広東省共産党委員会書記だった陶鑄氏が「社会主義は人が逃げるのを恐れない」と発言したことに言及しました。陶氏は、民衆が資本主義の地域に逃げてもすぐに戻ってくると考え、国境の開放を指示しました。しかし、わずか3日間で20万人もの人々が香港に逃れたため、慌てて国境を再び封鎖したとのことです。文化大革命の期間中にも多くの人々が香港に逃亡し、特に広東省の若者が多数逃げたと言います。香港の雑誌「前哨(ぜんしょう)」の創設者である劉達文氏も、この時期に香港へ逃れた一人です。
命がけの逃亡劇
大紀元の主筆である石山氏は、1980年代に広東のテレビ局で聞いた編集者の逃亡エピソードを語りました。その編集者は香港への脱出を試みるも7回も捕まり、その度に中国本土に送り返されました。ある時、彼は恋人と共に逃亡しましたが、発見された際に自らを犠牲にし、結果的に恋人だけが香港へ逃れることができました。離れ離れになった2人は、やむを得ず別れることになりました。中国では、こうした悲劇は枚挙にいとまがないといいます。文化大革命の時代に香港を目指したのは主に若者でした。しかし、逃亡中に溺死したり、中国の国境警備隊に銃撃されたりして、命を落とす人が後を絶ちませんでした。
在米の番組プロデューサーである李軍氏は、文化大革命時代に香港へ逃亡した最も有名な人物を紹介しました。その人物は、中国を代表するバイオリニストであり、中央音楽学院の初代院長を務めた馬思聡(マー・スツォン)です。1966年6月に文化大革命が始まると、馬思聡は「資本主義の学術的権威」であるとして、夫婦共に過酷な迫害を受けました。あるとき、馬氏が草むしりをしていると、監視員は彼の名字である「馬(ウマ)」に因んで、彼に草を食べるよう強制したというエピソードもあります。彼の妻と娘は友人の助けを借りて広州へと移動し、中国を脱出しました。その後、娘が北京に戻り、馬氏を説得して香港への逃亡を果たしました。馬氏はその後、香港のアメリカ領事館員の助けでアメリカへ渡ることができました。
2023年、アメリカ在住の華人たちは逃亡中に命を落とした人々を追悼するため、2つの記念碑を建てました。その碑には約350人の名前が刻まれていますが、関連する統計によれば、実際の犠牲者数は1万人に上る可能性があるといいます。拘束され、収容所で迫害を受けて命を落とした者、逃亡中に飢え死にした者も多くいるとのことです。
絶えない移民の波
独立評論家の蔡慎坤(さいしんこん)氏によると、中国を脱出するエリート層の多くは、政治的な理由によるものです。毛沢東時代は、頻発する政治運動の中で、知識人や自由主義的な思想を持つ人々が生き延びるのは非常に困難でした。そのため、見識のある人々は中国共産党が中国全土を掌握する前に逃亡しました。一般市民は政治運動が目前に迫った時に初めて危機感を覚え、逃げざるを得なくなりました。
一般人が逃亡する理由はやはり経済的なものです。特に文化大革命や大飢饉の時期には、食糧不足に苦しむ多くの人々が香港への脱出を図りました。当時、広州市内で珠江を泳ぐ人々の多くは、海を越えて香港に到達するという明白な目標を持っていたのです。
中国共産党が改革開放を行う前にも香港への大規模な脱出事件が発生しました。当時、広東省共産党委員会書記で、習近平の父親でもある習仲勲氏は、広東と香港の経済格差に驚き、中国共産党上層部に対して、「経済特区を設置して広東の経済を活性化させるべきだ」と提案しました。これが改革開放を促進するきっかけとなりました。しかし、中国共産党が経済を開放するのは政権の危機を解消するためであり、民衆の生活を改善するためではありませんでした。大量の人々が香港へ逃亡していた事実は、中国共産党政権の国内外での評判を落とす原因となっていたのです。
現在、中国経済は深刻な問題を抱えています。以前は経済に関する実態を議論することは一部認められていましたが、今年の中国共産党経済工作会議では、経済問題が高度に敏感な政治的話題と位置付けられました。中国政法大学の劉繼鵬教授は、中国の株式市場について発言したために微博アカウントを凍結されました。中国経済を批判することは習近平の指示に反する行為とされ、これは中国経済が既に危機的状況にあることを物語っています。公表された経済成長率は5%ですが、誰もがその数字が水増しされたものであると知っています。
近年、多くの富裕層が海外に移住し、大量の資金が様々な手段で国外に流出しています。李軍氏は、中国共産党幹部の子弟である「紅二代」さえも国外脱出を考えるようになっていると指摘してます。ある「紅二代」はニューヨークで現地メディアの取材に対し、「今は資産を移転し、中国を脱出する方法を考えるのが最優先事項だ」と語りました。
評論家の石山氏は古代中国のことわざとして、「危邦に入らず、乱邦に住まず。苛政は虎よりも猛し」を紹介しました。そして「中国人は、中国共産党の支配下で暮らすよりも、むしろ虎に食べられたほうがマシだと考えているようだ」と語りました。
(翻訳・唐木 衛)