前回の記事では、オリンピックが存在しなかった時代に、古代中国人が長距離走と短距離走で達成した驚異的な記録についてご紹介しました。今回の記事では、古代中国人が投擲、高跳び、遠跳びといった競技で残した記録に焦点を当てていきます。
投擲(とうてき)
1.武器に匹敵する百発百中の飛石
古代において、投擲は戦闘技術の一つであり、現在の砲丸投げや円盤投げに相当しています。石は武器なので、石を投げる「投石術」も当然ながら戦闘能力の一つになりました。
『史記』に記載されているように、紀元前224年、秦の始皇帝が六国を統一する上で最も重要な戦役の一つ「秦楚の戦い」において、秦の将軍・王翦(おう・せん)は60万の大軍を率いて天山に駐屯し、十里(約5km)以上に及ぶ連営を築き、堅固な守備を固め、楚軍との戦闘を避けました。兵士たちは日々、投石と綱引きの訓練を繰り返し、数十日にわたって鍛錬を積みました。楚軍の士気は低下し、兵士たちは疲労困憊しましたが、秦軍の戦闘能力は大幅に向上しました。この戦いで、秦軍は楚軍を完全に壊滅させました。⑧
唐王朝期、高宗は詔勅を出し、投石と綱引きの二つの競技でとりわけ優れた者には、褒賞と昇進を与えると命じました。⑨
『水滸伝(すいこでん)』で登場した張清(ちょう・せい)は、バッタが飛ぶ速さの石「飛蝗石」を投げるのがとても上手く、百発百中であり、攻撃も鋭いので、羽根のない矢という意味の「没羽箭(ぼつうせん)」というあだ名をつけられました。
このように、投石は戦闘においてとても重要な技能でした。火器が発明される以前は、常に軍の指揮官たちから重視されていました。
2.投石の最高記録:砲丸投=28メートル
『漢書・甘延壽伝』に記されているように、甘延寿(かん・えんじゅ)は若い頃、清廉な家柄の出身であり、騎馬と弓術に長けていたため、羽林軍の騎士に選ばれました。彼は「投石(手で石を投げること)」や「拔距(綱引き)」などの軍事訓練において、周りの同僚を大きく引き離すほどの成績を達成できました。また、羽林軍の兵舎の亭楼を飛び越えるほどの身軽さと強靭な体力を持ち合わせており、その卓越した才能から郎官に昇進しました。
この記述について、後漢を生きた学者・張晏(ちょう・あん)は『漢書』の注釈において、『范蠡兵法』を引用し、「飛石は十二斤の重さで、機械によって発射され、二百歩先まで投げることができる。延壽は力強いため、素手でそこまで投げることができた」と述べました。
『范蠡兵法』は散逸してしまい、張晏の生涯についても詳しく調べることはできないため、この箇所への注釈には複数の説があります。中には、「二十歩進む」とするものや「二百歩進む」「三百歩進む」とするものもあります。ここでは、最も短い距離である「二十歩」を基準にして計算してみましょう。つまり、甘延壽は重さ十二斤の石を素手で二十歩の距離まで投げることができたということです。漢王朝期の一斤は現在の258グラムに相当し、十二斤は3096グラムになります。漢王朝期の一歩は約6尺4寸で、現在の1.4メートルに相当し、二十歩は現在の28メートルに換算されます。すなわち、甘延壽が3kgの石を28m先まで投げることができたということを意味します。
ちなみに、現代における「砲丸投」では、一般男子が投げる砲丸の重さは「7.260kg(16ポンド)」と決められ、その世界記録(男子)は、2023年5月27日、アメリカの陸上競技選手ライアン・クルーザーさんが打ち立てた「23m56」でした。
高跳び、遠跳び(幅跳び)
1.高跳びを訓練していた戦国時代の決死隊員
戦国時代には、戦争の防衛施設として城や濠が既に存在していました。攻城戦においては、濠を越える跳躍能力が勝利の鍵を握ります。『呉子』や『六韜』などの兵法書では、特に高い場所を乗り越え、遠くへ跳躍できる能力を持つ兵士を特別部隊として編成し、小規模な攻撃部隊として活用することを推奨していました。
『左伝』にはこんな話が記されています。魯の哀公八年(紀元前487年)、呉の王・夫差(ふさ)は中原を統一しようと、軍勢を率いて北上して魯国を攻撃し、呉の軍は泗水(しすい)のほとりで駐屯しました。魯国の大夫である微虎は、呉の軍がまだ落ち着いていないうちに奇襲をかけ、呉の軍勢を挫くべきだと考えました。しかし、魯の君主は彼の意見を聞き入れませんでした。そこで微虎は、自ら家臣の中から兵を選び、決死隊を組織し、この作戦を実行することにしました。敵の陣地を攻撃する戦いのため、微虎は庭に障害物を設置し、それを3回跳び越えられる者だけを選抜しました。結果、700人の家臣の中から300人が選ばれました。選ばれた者の中には、当時微虎の家臣として仕えていた孔子の弟子である有若(ゆう・じゃく)もいました。⑩
こうして見ると、春秋戦国時代には、兵士たちが跳躍を非常に重視していたことがわかります。同時に、当時の儒者は単なる文弱な書生ではなかったことも知り伺えます。
2.跳躍能力で死刑を免れた晋国の将軍
跳躍が戦闘において重要な能力の一つであったため、各諸侯国の君主は当然のことながら、それを非常に重視していました。『左伝』には、このようなことが記されています。
紀元前632年、晋の文公(ぶんこう)は軍を率いて曹の国を攻撃しました。戦闘中、晋の大将の魏犨(ぎ・しゅう)と顛頡(てんけつ)は軍規を破り、曹国の大夫である僖負羈(き・ふき)の家を焼き払いました。魏犨は放火の際、胸に火傷を負いました。
晋の文公はこの二人の軍令違反を見て、非常に怒り、軍司馬の趙衰(ちょう・すい)に命じて、この二人を斬首し、見せしめにしようとしました。
趙衰は「一日にして二つの大将を殺すことは、軍にとって良くありません。魏犨は戦場で非常に勇敢で、何度も大きな功績を立てています。もし今回の火傷が重くなければ、許してあげましょう」と言いました。
晋の文公はこの意見に同意し、趙衰を派遣して魏犨の傷勢を視察させました。この知らせが魏犨に届きました。
魏犨は趙衰が様子を見に来た時、布で傷口をしっかりと巻きつけ、痛みをこらえて、上に300回、前に300回跳んで、「晋公のおかげで、火傷はすっかり治りました」と言いました。
魏犨が優れた跳躍能力を見せたため、晋の文公は彼を赦免し、顛頡のみ斬首して軍法を正しく示しました。⑪
この出来事から、春秋戦国時代には、軍隊が跳躍能力をとても重視していたことが分かります。
3.高跳びの最高記録:1.50m~1.77m
『南史・周文育伝』によれば、義興陽羨出身の周文育(しゅう・ぶんいく)は貧しい孤児であって、11歳のとき、彼は何度も数里を泳ぎ、6尺の高さまで跳躍することができました。他の子供たちと遊ぶときには、どの子供も彼の体力には敵いませんでした。⑫
周文育は陳朝の人物でした。その前の時代の梁朝での尺の単位で考えると、「六尺」は現在の1.50メートルに相当します。その後の時代の隋朝での尺の単位で考えると、隋尺は現在の0.296メートルに相当するため、「六尺」は1.77メートルとなります。つまり、周文育の高跳びは、1.50m~1.77mだったと考えられます。
ちなみに、現代における「走り高跳び」の世界記録(男子)は、1993年7月27日、キューバの走高跳選手ハビエル・ソトマヨルさんが打ち立てた「2.45m」でした。
4.幅跳びの最高記録:7m50
『南史・黄法奭伝』によると、巴山新建出身の黄法奭(こう・ほうく)は、若くしてとても強く敏捷で胆力があり、1日に300里を歩き、3丈の距離を跳躍できました。梁朝時代の1尺は約0.2505メートルに相当するため、「三丈」は7.5メートルに相当します。つまり、黄法奭の走幅跳記録は「7m50」ということになります。⑬
ちなみに、現代における「走幅跳」の世界記録(男子)は、1991年8月30日、アメリカの陸上競技選手マイク・パウエルさんが打ち立てた「8m95」でした。
以上、中国の古代の人々が、長距離走、短距離走、投擲、高跳び、幅跳びなどの陸上競技において達成した記録についてご紹介しました。これらの記録保持者は、それぞれの得意な才能によって栄誉を得たり、国のために功績を立てたり、さらには戦時中に命を救われたりすることができました。
時代の発展と運動競技レベルの向上に伴い、これらの記録は今ではそれほど目立つものではなくなっているかもしれません。また、現代社会では、体力の競争よりも、知力や心の競争が重視されるようになっています。しかし、現代を生きる私たちも、古今を通じて限界に挑戦し続けてきた運動選手たちから勇気や感動を受けることができます。これは、スポーツ精神の一つの表現と言えるのではないでしょうか。
(おわり)
註
⑧王翦果代李信擊荊。荊聞王翦益軍而來,乃悉國中兵以拒秦。王翦至,堅壁而守之,不肯戰。荊兵數出挑戰,終不出。王翦日休士洗沐,而善飲食撫循之,親與士卒同食。久之,王翦使人問軍中戲乎?對曰:「方投石超距。」於是王翦曰:「士卒可用矣。」(『史記・卷七十三<白起王翦列傳>』より)
⑨中国語原文:投石、拔距,勇冠三軍,具錄封進。(『京官文武三品以上每年各舉所知詔』より)
⑩中国語原文:微虎欲宵攻王舍,私屬徒七百人,三踊於幕庭,卒三百人,有若與焉。(『春秋左傳<哀公八年>』より)
⑪魏犨、顛頡怒曰:「勞之不圖,報於何有!」爇僖負羈氏,魏犨傷於胸。公欲殺之而愛其材,使問,且視之病,將殺之。魏犨束胸,見使者曰:「以君之靈,不有寧也。」距躍三百,曲踊三百。乃舍之,殺顛頡以徇于師,立舟之僑以為戎右。(『春秋左傳<僖公二十八年>』より)
⑫周文育字景德,義興陽羨人也。少孤貧,(中略)年十一,能反復游水中數里,跳高六尺,與群兒聚戲,眾莫能及。(『南史・列傳第五十六』より)
⑬黃法奭字仲昭,巴山新建人也。少勁捷有膽力,日步行二百里,能距躍三丈。(『南史・列傳第五十六』より)
(翻訳・宴楽)