世の人は皆、お金や権力を持つ人を羨ましがります。貧しい人々は金持ちになることを望みますが、世間には依然として貧しい人々も少なくありません。庶民は官職への昇進を望みますが、世間には依然として官職に就ける人は多くありません。しかし、たとえ将軍や大臣、皇帝であっても、運命の軌跡によって非業の死だって遂げるのです。庶民は質素な食事をしても、「足るを知る」ことができれば、心安らかな生活を楽しむことができます。
平穏に暮らせる幸福
『史記・秦始皇本紀』の中に、皇帝が平民になることを願っても叶わなかった史実が生き生きと記載されています。
秦の末年。丞相の趙高(ちょうこう)の娘息子である閻楽(えんらく)は、盗賊を捕まえるふりをして、数千人の兵士を率いて秦の第二代皇帝・胡亥(こがい)の宮殿に押し入ります。
胡亥は「丞相(じょうしょう)に会わせてもらえないか?」と聞くと、閻楽は「できない」と言いました。
胡亥は「それでは私を郡の王にさせてほしい」と言いましたが、閻楽は応じませんでした。
胡亥は「ならば私を高官に左遷してくれ」と言いましたが、閻楽は応じませんでした。
胡亥は「それでは私と妻子を平民の身分に降格させてくれ」と言いました。
閻楽は「世の人々の為にあなたを処分するよう、私は丞相から命じられているのです。あなたがどんなに要求しても、私は応じられません」と言いました。
その後、閻楽は兵士に進軍を命じ、胡亥は自害するしかありませんでした。この話は後に「望夷宮(ぼういきゅう)の変」と称される歴史的事件となります。
『笑林廣記』の中にこのような話があります。
ある鬼が転生する時、閻魔大王はこの鬼に「金持ちになる」と宣告しました。
鬼は「私は金持ちになどなりたくありません。一生衣食に不自由しなければいいのです。物事にこだわらず、香を焚いて、苦茶を飲み、平穏に暮らせれば十分なのです」と言いました。
すると閻魔大王は「金が欲しかったら、いくらでもあげられるが、そのような平穏な暮らしを楽しむのは難しいだろう」と言いました。
私はこの物語に登場する鬼の欲のない心理状態を高く評価し、彼の品性の高さや志の遠大さ、そして人生の本質に対する深い理解を認めざるを得ません。
古今のいかなることも、みな笑って話せるものである
中国では「人生如戯(人生は芝居のようなもの)」と「是非成敗轉頭空(良し悪しや成敗は考え方を変えれば無に帰す)」の二つの理にかなった名言があります。長い歴史の中で見れば、どれだけ名声や富を追い求めて利を得たとしても、百年後にはすべてが空になってしまいます。いかなる偉大な英雄でさえ、形のある何かを永遠に残すことは難しいでしょう。世間から見れば、時間の洗礼を受けた後の成功や失敗は、すべて空しいものになります。貧乏人も金持ちも、庶民であろうと官僚であろうと、最後は免れる事はなく、等しく死に直面するのです。
歴史上の多くの並外れた英雄や豪傑であろうと、どれほどの偉業を成し遂げたとしても、悠久の景色の前ではどれも短くて空虚に見えます。項羽は世に抜きんでた英雄であり、向かうところ敵なしで不敗の勝利を収めましたが、最終的には烏江(うこう)で自ら首をはねて死んだのです。関雲長(関羽)は五つの関所を守る、六人の将軍を斬り殺しました。彼は威厳があり、勇猛で忠義を尽くしましたが、最終的には麦城で敗北し、首を斬られて殺されました。
波乱万丈な人生を経た彼らの結末は、河で釣りをしている無名の老人にも及ばないでしょう。その老人は度量が広く、物事に対するこだわりがなく、超然としており、「古今どれほどのことがあろうとすべて笑い話にすぎない」という境地に達しているのです。俗世の英雄や豪傑たちが勇ましい姿で血なまぐさい戦いを繰り広げている間、彼は気楽な気分で濁り酒を飲み、食後のくつろぎのひとときに古今のことを語ります。だからこそ、千古の文豪である蘇東坡(そとうば、本名は蘇軾)は、「大江東去、浪淘尽、千古風流人物(長江の東へ流れ去る、浪が千古の傑出した人物を流し尽くす)」という優れた詩文を書き、千古の詩仙である李白も「古来聖賢皆寂寞、惟有飲者留其名(古来の聖人や賢人はみなひとりぼっちで寂しく、酒飲みだけが名を残した)」という名言を残しました。
真の幸福とは心の平安
多くの友人が寝食を忘れて昼夜を問わず働くのを見て、自分の怠惰を反省することがあります。しかし、「善悪や成功や失敗も考え方を変えれば無に帰する」という真理を悟った時、釈然とした気持ちになりました。名利への欲望を手放せば、必死になって働いたり、人生のほんの些細な利益のために頭を悩ませたりする必要もなくなります。本当に心を落ち着かせて、毎日、本当に心を静めて空を見上げ、雲を眺め、雨音に耳を傾け、秋の月や春の風を微笑みながら迎えることができれば、広く屈託のない心の境地に到達できるでしょう。あの河で釣りをする名も無き老人のように、古今の多くのことはすべて笑って話せることです。
俗世間においては、財産や地位は明け方の薄い霧のようなものであり、名声は空中の煙のようであり、一時的に輝かしいものであっても、しょせんは長く続くことはありません。毎日休まず、忙しく走り回って疲れている人たちが必死に追求する目標は、世俗的な要求であって、心の要求ではありません。本当の幸福とはお金や権力ではなく、自分の心の奥底から湧き出る平穏と安らぎです。したがって、「一生衣食に不自由しなければいいのです。物事にこだわらず、香を焚いて、苦茶を飲み、平穏に暮らす」このような生活こそ、人生における最高の境地といえるでしょう。
「苦茶にはさわやかな香りが伴っており、平凡でありきたりであることが真の幸福です。」誰もがこの道理を理解できるわけではありませんが、このシンプルな道理を理解できれば、真の幸福を得ることができるのではないでしょうか。
(文・雲中君/翻訳・夜香木)