雲崗石窟 第20窟 如来坐像(Gisling, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

一、雲崗石窟
 
 「雲崗石窟」は中国山西省大同市の西約20キロ、武州川の北岸の断崖につくられた石窟寺院です。
 今から1500年前の北魏時代、曇曜という僧侶が時の皇帝・文成帝に申し出たことから、石窟の開窟と石仏の彫刻が始まったと言います。その造営は460年から494年の洛陽遷都まで続きました。
 「雲崗石窟」に現存している主要な洞窟は53個あり、内部には51,000体以上の仏像が刻まれています。
 「雲崗石窟」の仏像は力強く、重厚かつ素朴な中国西部地方の情緒を有しており、中でも第20窟の座仏像は高さが13.75mで、北魏の皇帝をモデルにした巨大な如来像で、雲岡石窟を代表する仏像です。 

 「雲崗石窟」は、敦煌の「莫高窟」、洛陽の「龍門石窟」と並び、「中国三大石窟」と言われ、2001年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
 
二、「雲崗石窟」は法隆寺の源流?
 
 北魏時代に造られた「雲崗石窟」は、日本との関係が深く、法隆寺の源流と見られています。
 
 それを最初に提起したのは、日本人建築家の伊東忠太(1867〜1954)でした。
 伊東忠太は、明治25(1892)年に帝国大学工科大学を卒業した後、大学院に進み、建築史の研究を行い、明治38年に東京帝大工科大学の教授となりました。彼は西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直し、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示しました。
 
 1900年、伊東忠太は北京の「紫禁城」調査を行った後、1902年3月29日から3年3ヶ月に及ぶ世界建築を見学する旅に出ました。 

伊東忠太(1868-1954)、明治〜昭和期の建築家・建築史家。(パブリック・ドメイン)

 彼のこの世界旅行での最大の学術的成果は、雲崗石窟の「発見」でした。
 
 1902年6月16日に、伊東忠太一行は大同に到着した時、街の西から20キロ離れた雲崗に、北魏時代にできたといわれる古跡があることを知りました。
 翌朝、彼らは馬に乗って西に進み、武州川を越えると、川の北壁に沿って約1キロ、見事な石仏群が広がっているのを目にしました。
 彼の日記には、「……その仏相、装飾の手法、紋様などは、……実にわが法隆寺式はまったく同じきものあり。鳥仏師作の仏と符合するものあり。壁画と同型の、金堂建築の手法と符号するもの、実に以外のまた以外。余は法隆寺の郷里を知りえて、その嬉しきこと限りなく、昼飯を食するの時間も惜しまれて、午後5時を過ぎるまで、一気に調査して、やや、要領を得たり。」(原文より)と書かれています。             
 ここで、伊東忠太は法隆寺の淵源を発見したのです。
 
三、法隆寺 聖徳太子 そして「慧思禅師後身説」……
 
 法隆寺は7世紀に創建された、聖徳太子ゆかりの寺院で、世界最古の木造建築物群であると言われています。
 法隆寺の金堂の内陣には釈迦三尊像(623)が安置されています。その彫刻は北魏様式のものと言われ、力強く端厳で男性的、アーモンド形の目や仰月形の唇が特徴です。   

法隆寺金堂釈迦三尊像(パブリック・ドメイン)

 四天王寺、法隆寺を伽藍様式で最初に建立したのは、仏教を厚く信仰した聖徳太子でした。
 聖徳太子には、「慧思禅師後身説」と呼ばれる説がありますが、それはいわゆる聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 – 577年)の生まれ変わりであるとするものです。          
 その説は「入唐求法巡礼行記」に、慈覚大師円仁が五台山で語ったことにも、「唐大和上東征伝」には、鑑真が渡日する動機となっていたことも記されています。       
 
 それでは、慧思とは一体どのような人物なのでしょうか。

北魏末期高僧慧思(パブリック・ドメイン)

 慧思は北魏末期に生まれた高僧で、天台宗の事実上の開祖でした。慧思は禅の修行に励み、30歳を過ぎた頃開悟しました。548年から頓悟の体験に基づく大乗仏教のあり方を各地で説いていましたが、仏教界からの激しい迫害に遭いました。慧思は末世の現実に対する深刻な危機意識を持ちながらも、衆生済度の使命を痛感していました。
 558年、慧思は自らの心を記した『立誓願文』(りゅうせいがんもん)を書きました。
 その中には、「我今誓願 持令不滅 教化衆生 至弥勒仏出 仏従癸酉年 入涅槃後 至未来賢劫初 弥勒成仏時 有五十六億万歳 我従末法初 始立大誓願 修習苦行 如是過五十六億万歳 必願具足仏道功徳 見弥勒仏 ……」と書かれています。
 日本語に訳すと、「弥勒菩薩がお生まれになるまで、私は滅びることなく、すべての人生をかけて衆生に教化していくことを誓います。 釈尊が涅槃に入られた後、弥勒菩薩が仏になられ、未来の仏陀の御世が始まるまで、56億年の歳月があります。 私は末法以来、大願を立て、修行に励み、56億年の歳月を経て、仏道を成就して、弥勒菩薩にお目にかかりたいと願っています。」(筆者訳)となります。
 
 慧思は北魏終末の社会の廃れを体験し、末法の世に入ったことを痛感し、未来に弥勒菩薩が再びこの世に現れた際に衆生済度すると誓いを立てたのです。
 
 聖徳太子がこの天台宗の開祖である慧思の生まれ変わりだとするならば、聖徳太子が仏教の興隆に努めたこと、鑑真和尚が渡日する動機となったこと、そして雲崗石窟が法隆寺の源流であること……、その様々な謎が解明されるように思います。

 1500年前の北魏は飛鳥時代の日本といろんな形で繋がっていたことに驚きを感じました。

(文・一心)