扇面絵:南宋・趙伯驌「風檐展巻」( パブリック・ドメイン)

 扇風機やエアコンが普及する前は、暑さをしのぐために「扇子」がよく使われていました。誰もが扇子と親しみ、縁があったと言えるでしょう。
 中国語では、「扇」は「善」と発音が同じなので、扇の緣は善の緣、善縁(ぜんえん)とも言えます。今回は、扇子を通じて善緣を結ぶ二つの物語をご紹介します。

王義之の書扇(しょせん)

 「書聖」と称される王羲之(おう・ぎし)はかつて右軍将軍で務めていたため、「王右軍(おうゆうぐん)」とも呼ばれていました。彼は晩年に官職を辞し、会稽山陰(現在の浙江省紹興市)に定住しました。友人を呼び寄せて山水で遊んだり、市井の小路を散歩したりして、物売りや使い走りの人達と楽しく過ごしました。

右軍扇の絵の話(北京・頤和園の回廊絵画・右軍題扇)(パブリック・ドメイン)

 ある日、王羲之は使いを連れて、郊外の蕺山(しゅうざん)への船に乗りました。
 上陸した後、階段を上がると、遠くに白髪の老婦人が見えました。彼女は白い紙で作られた六角扇を籠に入れて、通りすがりの観光客に売っていました。しかし、立ち止まって扇子を買う人はほとんどいませんでした。
 眉をひそめている老婦人を見て、王羲之は彼女の前に立ち止まり、拱手して礼をしながら「ご婦人、お悩みがあるようですが、何かありましたでしょうか?」と聞きました。
 老婦人は王羲之の立派な姿と優雅な振る舞いを見て、正直に話しました。「私は普段、六角扇を売って生計を立てています。しかしここ数日、なぜか全然売れなくて、今日と来たら一つも売れていません。はぁ、どうしよう…」と言って、またうなだれてため息をつきました。
 王羲之はこれを聞いて、老婦人のことを慰めようと「ご婦人、心配しないでください。商売はきっと良くなりますよ。この扇子はおいくらですか?」と言いました。
 老婦人は王羲之が扇子を買うつもりだと思い、「この扇子は一つ十文でいいです。もし多く買っていただけるのなら、さらにお安くしますよ」と急いで言いました。
 王羲之は微笑みながら六角扇を手に取り、「そうですか。私はこれらの扇子をすぐに、しかも良い値段で売り切れにする方法があります!」と言いました。
 そう言って、王羲之は使いが持っている包みから筆と墨を取り出し、筆を墨に浸して、手に持った売り物の扇子に書を描き始めました。
 老婦人はこれを見て、急いで前に出て「旦那様、売り物の扇子にそんなことをしないでください!」と止めようとしました。
 王羲之は描く手を止めず「心配ご無用。私がこれを書けば、本当に高く売れますから」と言いました。
 王羲之の使いもにこにこしながら「うちの旦那様が書いた扇面はいい値段で売れますよ!」と老婦人に言いました。
 こうして話しながら、王羲之は老婦人の籠にあるすべての扇子にいくつかの文字を書き、署名もしました。そして書き終えると「さあ、人が多い場所へ早く行って売りましょう。『王右軍直筆の扇子だ』と言って、一つ百文で売りましょう。一文もまけてはいけませんよ」と、王羲之は老婦人に言いました。
 老婦人は半信半疑で籠を持ち上げ、人混みに向かって進んでいきました。
 老婦人が「王右軍直筆の扇子」と呼び始めた途端、観光客の中から多くの人が老婦人の方に集まってきました。「王右軍直筆」の価値を知る人々は、六角扇に本当に王羲之の筆跡があり、まるで書かれたばかりのようだと感嘆し、我先にとすぐに購入して、王羲之の書を楽しみました。そしてうわさが広がり、人がどんどん集まってきて、老婦人の籠にあった白紙の六角扇は瞬く間に売り切れました。
 王羲之と使いはこの様子を見て安心しました。二人は人混みを抜け、蕺山の頂上へと向かいました。
 老婦人は一気に三千文の銅銭を手に入れ、嬉しくて口もとが緩みっぱなしでした。「今日は本当に貴人に出会ったわ!もっと扇子を持ってくればよかった」と思いながら、振り返って王羲之を探しましたが、彼の姿はもう見えませんでした。
 こうして、王羲之が扇に書を書いて老婦人を助けた話は、書道界の美談となりました。

蘇軾の絵扇

 時は宋の神宗の治世、熙寧五年(紀元1072年)。大文豪蘇軾(そ・しょく)が杭州の通判として赴任してから2年目のことでした。この年の初秋、蘇軾は役所の後ろにある自分の官邸で詩友を招いて宴を開きました。
 菊の花が咲き始め、秋風が爽やかに吹いていました。宴会が楽しく進んでおり、詩を作って楽しんでいる最中、突然、役所の前から太鼓の音が聞こえてきました。使いの報告によると、外で誰かが太鼓を叩いて訴えを申し出ているとのことでした。
 興ざめでしたが、蘇軾はすぐに官服に着替え、法廷を開いて審理を始めました。
 訴えを起こしたのは絹織物問屋で、行商人の張二を訴えました。去年の冬に張二が問屋から二万銭を借り、半年で返済すると約束したのに、まもなく一年が経つ今、何度も催促しても一銭も返済されていない、とのことでした。
 蘇軾は訴状を確認し、張二を呼び出しました。
 張二は泣きそうな顔で言いました。「私は季節に合わせて商売をしている行商人です。昨年の冬、問屋の旦那さんから二万銭を借りて扇子を仕入れて売ろうとしましたが、端午の節句を過ぎても天気が異常に涼しく、さらに頻繁に雨が降りました。こんな天気では誰も私の扇子を買わないじゃないですか。ご覧の通り、ここ数日もまた雨が降っています…。」と、涙がポロポロと溢れました。
 借金を返すのは当然のことです。しかし、張二の商売が厳しく、返済を無理強いするわけにもいけません。蘇軾はしばらく考えた後「張二、家に帰って三十本の扇子を持ってきなさい」と言いました。
 突然のことで張二は戸惑いましたが、すぐに家に帰って扇子を取ってきました。
 蘇軾は扇子を広げ、筆を振って絵を描きました。しばらくして、蘇軾は描き終えた三十本の扇子を指して「これらの扇子をすぐに街に持って行って売りなさい。蘇東坡が描いた扇面だと言って、一つ千銭で売るんだ」と張二に言いました。
 張二は蘇軾の言う通りにすると、蘇東坡が描いた扇面だと聞いて、大勢の人たちがこぞって集まりました。一時間も経たないうちに、三十本の扇子はすべて売り切れました。
 蘇軾は張二に、まず問屋に借りていた二万銭を元利合わせて返済して、残ったお金を元手にして商売を続けるようにと、「判決」を下しました。
 こうして、難しい案件が蘇軾によって簡単に解決されたのです。

商山四皓・蘇東坡風水洞(メトロポリタン美術館, CC0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 『東坡の絵扇』という話はたちまち杭州の中に広まりました。もともと杭州の紙扇には黒と白の二種類しかありませんでしたが、この話によって人々も蘇軾を真似て、扇面に花鳥や人物、山水を描くようになりました。このような扇子は涼を取るだけでなく、鑑賞もできるため、大人気を博しました。
 一度の善意による機転が、杭州で扇面に書画を描く風潮を生み出し、さらに『杭扇』を代表とする『画扇』の風が北宋の時代から現代まで伝わることになるとは、蘇軾も思ってもみなかったでしょう。

 以上、古代中国の扇子にまつわる二つの物語をご紹介しました。暑い夏に外出する際には、ぜひ折りたたみ扇子を手に取り、涼を取りながら美しい伝統文化を感じてみてはいかがですか?

(文・楚天/翻訳・宴楽)