殿試の様子(Ming Dynasty Painting, Public domain, via Wikimedia Commons)

 「science」の訳語として使われている「科学」は、前近代の中国の「科挙之学」の略語に由来すると言われています。

 「科学」という語は、中国では「科挙之学」の略語として、すでに12世紀頃には使われていました(注1)。明治時代に「science」という言葉が入ってきた際、啓蒙思想家の西周(にし あまね)は、それを様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てたとのことです。

 現在、「科学」は、狭義では自然科学だけを指しますが、広義では全学問を意味します。

 本文では、「科学」の語源となる「科挙の学」の「科挙」とは何か、科挙で試された学問とその理念とは何かを、探ってみたいと思います。

一、1300年も続く官吏登用制度

 「科挙」とは、西暦598年から1905年、すなわち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって中国で行われた官僚登用試験のことです。

 「科挙」を初めて導入したのは、隋の文帝(541〜604)でした。

 581年、北朝の軍人出身の隋の文帝(楊堅)は、南朝の陳を倒し、南北に分裂していた中国を統一しました。

 中央集権を強化するため、隋の文帝はより広く人材を求めようとしました。

 当時の官吏登用法として、人材を地方長官から中央に推挙する「郷挙里選」、「九品中正」という推薦方法が用いられ、推薦される者は有力な豪族の子弟が多く、高級官職が名門の家柄に独占されていました。

 しかし隋文帝は、これまでの官吏任用制度を廃止し、推薦ではなく試験を行い、「(試験)科目による選挙」を行ったのです。

 科挙は、すなわち「試験科目による選挙」の意味となります。

科挙の合格者発表(放榜)(Qiu Ying, Public domain, via Wikimedia Commons)

 科挙は、家柄や身分に関係なく、公平な試験を受けることによって、誰もが官吏に登用されることが可能になり、当時としては非常に革新的なものでした。

 科挙は、隋から始まった当初、毎年の合格者は数名程度に過ぎず、制度としてまだまだ未熟なものでした。

 唐代になると、次第に整備され、発展し、特に則天武后の頃から、科挙は官僚制度を支えるシステムとして確立されるようになりました。

 宋代には、皇帝自ら試験官となって、宮中で行う最終試験の殿試が設けられました。科挙は官僚登用制度として完成したのです。

 元では科挙が一時停止されましたが、その末期には復活しました。

 明でも大規模に行われるようになり、清朝は女真が中国を支配しましたが、科挙制は明代に続いて盛大に行われ、継承されました。

 こうして、科挙制度は、6世紀から20世紀初頭に廃止されるまで、各王朝に支える優秀な官吏を選抜するシステムとして、中国の歴史の中で重要な役割を果たしてきました。 

二、科挙で試される学問とは

 それでは、科挙の試験科目はどのようなものだったのでしょうか。

 基本的には、「四書五経」の解釈、詩賦、論作の三つが課されていました。

アンカー 「四書」は『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』を総称するもので、「五経」は『易経』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』を指し、いずれも儒教の基本経典です。

 古代中国では、これらの儒教の経典をマスターすることが、政治や社会の指導者層になるための第一歩だと考えられていました。 

 そのため、受験者は、膨大な儒学経典(約62万字)を暗記することが要求され、その上、詩文の能力や政策立案能力も試されました。

 科挙の競争率は非常に高く、世界で一番合格するのが難しい試験だと言われていました。

 奈良時代の遣唐使だった阿倍仲麻呂(698年-770年)は、19歳で中国に渡り、27歳で科挙試験に合格しました。その後、唐の玄宗皇帝にその才能を評価され、朝廷にて官吏となった仲麻呂は、再び故郷の地を踏むことは叶わず、異国の地でその生涯を閉じました。

三、科挙の理念

 科挙は、徳治主義という儒教の国家統治理念を反映するものです。

 徳治主義とは、為政者は徳性によって民衆を道徳的に教化し、導こうとすべきだという政治理念と思想です。

 儒教では、民衆の上に立つ指導者は、まず修養に励んで徳を高め、自分という人間を作り上げた上で、その徳の力によって世の人々を感化し、世を治めていくこと(修己治人)を理想とします。

 四書の一つの『大学』のはじめに、「身を修め、家庭を斉え、国家を治め、天下を平らかにする」という君子の修養の道を説いています。すなわち、官僚になる人は、人格高潔にして充分な教養を身につけた士君子でなければならず、逆に言えば、そのような士君子は政治に参与しなければならないことを言っています。 

 このような理念の下、科挙試験は、官僚としての実務的能力や知識等が問われることはなく、経典の暗誦や詩賦の能力といった士君子の資質の有無を確認することに力を入れていました。

 科挙は、古代中国における人間のあり方、そして、国家機構のあり方の根本的な理念と深くかかわる政治制度と見なすべきではないでしょうか。

四、「科挙之学」の科学の敗北と復興……

 当然ながら、1300年も続いた科挙はやがて制度疲弊を起こします。

 時代を下るにしたがって、科挙制度は本来の目的と現実の間にズレが生じ、科挙に受かること自体が目的となり、「優秀な人材の輩出」という機能を失いつつありました。そして科挙試験の中でカンニングや不正行為も頻繁に起こるようになりました。

 さらに、18世紀後半になると、ヨーロッパで産業革命が起こり、工業生産力が急速に増大し、世界情勢がすっかり変わりました。科学技術を中心とする近代西欧文明の衝撃に直面し、中国では、専門的な知識や訓練ではなく、古典をひたすら暗記するだけの科挙制度は、時代にそぐわず、中国の近代化を遅滞させる要因の一つと見られるようになりました。

 そして1905年、科挙はついに廃止され、1300年の歴史に幕を閉じました。

 科挙の廃止は、中国の伝統的な価値観、すなわち儒教の世界観を柱とした政治や文化のあり方が大きく転換したことを意味し、「科挙の学」の科学は西洋の科学に敗北したことを意味します。

 その後、中国では、官吏養成の学校が設立され、中央官吏への登用は海外留学経験、特に日本への留学生が重視されるようになりました。そして、魯迅を代表とする一部の中国の知識人は、儒教に痛烈な批判を展開しました。

 1949年中華人民共和国が成立後、伝統的な儒教思想は、社会主義の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられ、完全否定され、特に文化大革命期には徹底的に弾圧されました。

 その結果、その後の数世代の中国人の多くは、自らの伝統や文化、歴史を知らず、伝統的な価値観や世界観よりも、「共産主義思想」や「毛沢東思想」が頭に充満する人種となりました。

 共産主義や毛沢東思想が人々の判断力を失わせた今の中国は、これからどの方向へ進み、どの道を歩むのか、苦境に立たされています。

 かつて社会に安定と繁栄をもたらし、人々の高い道徳性が求められる中国の伝統文化が、未来に立ち向かう人々に新たな指針を示してくれるでしょうか?

 そして科挙で試された「科学」が、再び評価され、復興することはあるのでしょうか?

注1:「科学論入門」岩波新書 1996 佐々木力 

参考文献:「科挙の話 試験制度と文人官僚」講談社学術文庫 村上哲見

( 文・一心)