蘇軾(そ・しょく、1036年~1101年)は、中国北宋の政治家、文豪、書家、画家です。字は子瞻(しせん)、号は東坡居士(とうばこじ)で、宋代随一の文豪として多分野で業績を残しました。前回では、蘇軾の前半生における多難な仕官の道と非凡な文学の才をご紹介しました。今回は、蘇軾の後半生と共に、蘇軾の面白い一面をご紹介します。

 中国の歴代の美食家の名を挙げると、蘇東坡(そ・とうば)の名は必ず挙げられるでしょう。実際のところ、中国では「蘇東坡」という呼び方は「蘇軾」より人々に親しまれているかもしれません。

 なぜかというと、蘇東坡は詩聖・杜甫(と・ほ)の「料理の名を詩に取り組む」というアイデアを見事に継承しただけでなく、自身の南船北馬ともいえる転任の経歴をもって、中国の食文化を発展させたからです。肉料理、野菜料理、海の幸、山の幸から、中国各地の果物やお酒、お茶まで、宋王朝期の食卓は悉く蘇東坡の作品に登場し、その中には広く暗唱されるほど有名な詩や文もたくさんありました。蘇東坡は杜甫を越えて、古代中国の文人において中国食文化を表現した第一人者になりました。

「豚肉の詩」から見る風骨と健康のバランス

 蘇東坡は、ただ料理の詩を詠むだけの人ではなく、自ら料理をしてそれを詩に取り込み、そしてよく食べてよく飲み、しょっちゅう料理をして詩を詠む人でした。これは中国歴代文人においてもかなり珍しいです。日本でもおなじみの「東坡肉(トンポーロー)」は、蘇東坡が黄州(現在の湖北省黃岡県)の流罪生活の中で発明した中国有名な伝統料理でした。
 蘇東坡は豚肉を食べるのが大好きでした。「東坡肉」はサクサクな食感を持ちながら砕けにくく、ジューシーでありながら油っこくありません。肉と出汁が溶け合い、滑らかな舌触りを持つ美味しい料理です。この美味しさを追求した過程は蘇軾の「豬肉頌(豚肉の詩)」として残されました。

  鍋をキレイに洗ってから、少な目の水を入れよう。薪と雑草を燃やして火を起こしたら、火が見えないぐらいの火力でお肉をじっくり煮よう。
  あせってはいけない。十分な時間があれば、お肉は自ずとおいしく出来上がるから。
  黄州にはこんなにも良質な豚肉があって、それに泥のようにお手頃だ。なのに、お金持ちたちは食べたくないし、貧しい人たちはその美味しい食べ方を知らない。
  けれど私は、毎朝このお肉を食べて、おかわりもおいしく頂いているから、他人のことなどどうでもいいな!①

 一見、豚肉の料理方法と豚肉の美味しさを詠む詩ですが、「十分な時間があれば」「他人のことなどどうでもいい」などの句から、何事にも動揺しない強い心の持ち主こそ、世間の煩悩や噂などを恐れず、自分の道を貫くことができるという、蘇東坡の心境が垣間見えます。

 文人としての蘇軾は竹をこよなく愛し、竹から生まれる食材「筍(たけのこ)」も大好きでした。そこで、蘇軾は豚肉と筍を一緒に炒めて「豚肉と筍の炒め」をしょっちゅう作って食べたそうです。言い伝えによると、蘇軾はこの料理について「竹がないと人は俗人になってしまう。豚肉がないと人は瘦せてしまう。豚肉と筍の炒めを食べると、俗人にもならず、痩せることもなくなるだろう」と友達に説明していたそうです。実際、豚肉と筍の炒めは食感が勿論のこと、栄養補給の作用も抜群です。蘇軾はこのように、風骨と健康のバランスを見事に取れた料理を創り出したのです。

 素直に竹と豚肉が大好きな美食家・蘇軾。しかし、彼の後半生の仕官の道には、さらなる試練が立ちはだかります。

日本において、長崎県では卓袱料理の一つである東坡煮(663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

浮き沈みの絶えない仕官の道

 元豊七年(紀元1084年)、蘇軾は49歳になりました。この年の八月、宋の神宗は蘇軾の名誉を回復し、汝州(現在の河南省汝南県)の団練副使だった蘇軾を登州(現在の山東省蓬莱県)の知事に任じました。半月も経たずに、蘇軾は勅命により京に赴き礼部の郎官に就任しました。その半月後、蘇軾は延和殿の「起居舍人」に転任しました。

 元豊八年(紀元1085年)、神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后(高氏)の垂簾朝政(すいれんちょうせい)が始まります。太后の後押しにより、新法が廃止され、司馬光をはじめとする旧法派の官僚は要職に就くようになりました。これは後世に伝わる「元祐更化」になります。元祐元年(紀元1065年)、司馬光は宰相になる年に、蘇軾も中央の官界に復帰し、「中書舎人」「翰林学士」まで昇進し、「侍読」を兼任しました。

 京に戻って一年も経たない間に三回も昇進しましたが、蘇軾は仕官の道から退きたくようになりました。新法を積極的に反対した蘇軾は、新法の中でも「免役法」などはとても素晴らしく、目下だけでなく未来にも有益な政策のため、理に適った法律は存続させるべきだと司馬光に説得しましたが、司馬光は断固として承諾しませんでした。二人の激しい論争により、旧法派は蘇軾を新法派の人と見るようになった一方、新法派は蘇軾を味方とせず、蘇軾は肩身がますます狭くなりました。九月、司馬光の死後、旧法派の内部の分裂と対立が先鋭化し、政治の主張だけでなく、個人に対する誹謗中傷まで現れるようになりました。

 元祐四年(紀元1089年)、蘇軾は朝廷を離れたく、願い出て杭州に転任し、杭州の住民たちの大きな歓迎を受けました。就任してすぐ、厳しい天災と疫病が起こり、蘇軾は杭州初の公立病院を設立しました。翌年、西湖を浚渫(しゅんせつ)した泥で造った人口堤防「蘇堤(そてい)」の建設を監督しました。

 元祐六年(紀元1091年)、蘇軾は勅命により京に戻り「翰林學士承旨」と「侍読」を兼任しますが、急進的な旧法派の「朔党」に排斥され、数か月足らずで朝廷を離れ潁州(現在の安徽省阜陽市)の知事に転任させられ、その翌年に揚州(現在の江蘇省揚州市)の知事に転任しました。元祐七年(紀元1092年)九月、蘇軾はまたもや勅命により朝廷に戻り「兵部尚書」と「翰林侍読学士」を兼任し、十一月に「端明殿学士」と「侍読」を兼任しました。

 この年は蘇軾の仕官人生において最も高い官職に就任した年でした。しかし、蘇軾の昇進に伴い、政敵からの攻撃も多くなり、遠い昔の「烏台詩案」を理由にした攻撃もありました。蘇軾は朝廷を離れるよう願い出ましたが、承認されませんでした。

 元祐八年(紀元1093年)、弾劾を受けた蘇軾は朝廷を離れ、定州(現在の河北省定県)知事に就任した九月に、太后が病死しました。「元祐更化」もこれに伴い終結しました。

異常の転任回数と困難な生活環境でも達観した考えの蘇東坡

 太后の死後、哲宗は18歳の年で執政するようになり、父・神宗の推進した新法を再び推進します。呂恵卿をはじめとする新法派が再び力を持つようになり、旧法派全体が厳しい弾劾を受けるようになりました。紹聖元年(紀元1094年)四月、59歳の蘇軾は「朝廷誹謗の罪」に問われ、嶺外英州(現在の広東省英德県)知事に左遷されました。同年六月、英州に向かう途中で勅命を受けて恵州(現在の広東省恵州市)まで流罪になりました。

 恵州での二年間は極めて困難でした。嘉祐寺に住む蘇軾は、自分で野菜を植えなければならなく、お米が無くなる時期もありました。しかし、このような困難に直面しても、蘇軾は一切動揺せず、甘んじて恵州生活を過ごしていました。この時期に書いたとされる詩の中に「常春のこの地には、中原では食べられない枇杷や山桃、茘枝(ライチ)がたくさんある。毎日たくさん食べられれば、ずっとこの地にいてもいいと思うよ②」「(私が)あまりにもぐっすりと熟睡しているから、(嘉祐寺の)僧侶たちも鐘撞きを軽くしていたのだ③」などの句がありました。僻地にまで左遷させられても、志が削られることなく、流罪生活を楽しんでいる蘇軾がいました。

 ところが、悠然とした蘇軾の詩が新法派の逆鱗に触れてしまったようで、蘇軾はまたもや濡れ衣を着せられて弾劾されてしまい、62歳の時には「瓊州別駕」という実権のない官職として、熱帯環境の儋州(海南島)にまで追放されました。また同時に、弟の蘇轍も雷州(現在の広東省湛江市)に追放されました。それでも、蘇軾は「瓊州と雷州は雲海(瓊州海峡)で隔てられても、遠くから眺め合うことが許された皇帝のご恩を忘れてはいけないね④」と詩を詠み、積極的な考え方を見せました。
儋州に到着した蘇軾は住む場所がないので、当地に駐屯している「昌化軍」の軍使・張中は、文豪である蘇軾に手を抜くことができないとわかり、蘇軾と蘇軾の息子の蘇過を軍舎に住ませ、食事も駐屯軍の食事と同じでした。ところが、しばらくして、新法派の官僚が雷州を視察する時、蘇軾が昌化軍の軍舎に住んでいると聞くと、使いを軍舎に派遣して、軍使の張中に蘇軾を追い払うよう命令するほか、張中にも処罰をしました。

 追い払われた蘇軾は「三食にお肉がない。病気にかかっても薬はない。住む場所がなく、出かけても友人がいない。冬になったら暖を取る炭がなく、夏になったら冷たい水がない⑤」という極めて困難な生活を送りました。

 生計を立てるために、酒器まで売りに出してしまいましたが、書籍だけは売り出さず、読書を怠っていませんでした。柳宗元や陶淵明の詩を愛読していた蘇軾は、しばしば大きな酒ひょうたんを持って、歌を唄いながら田んぼを散歩していました。詩を詠むことがもちろん、蘇軾は役人でありながら多くの庶民と友達になって、公務が少ない時友達の家に訪れたり、酒を飲みながら雑談したりする他、お隣さんが病気になったら手当と治療にも熱心でした。62歳の流罪生活は厳しかったのですが、蘇軾は依然として超越した洒脱さをもっていたので苦になりませんでした。

 この洒脱さと熱心さによるものか、蘇軾の生活も段々と良くなりました。当地の先住民・黎族(リー族)の人たちは城南の桄榔(サトウヤシ)の林の中に草屋を建てて蘇軾を住ませて、蘇軾はこの草屋を「桄榔庵」と呼びました。当地の住民たちは蘇軾に食べ物と粗布を贈り、食糧と衣服の問題を解決してあげました。それだけでなく、毎年旧暦12月23日、海南島の住民たちの行事・竈神を祀る行事が終わった後、祀りでの供物を蘇軾に贈りました。

 この期間中、蘇軾は儋耳(だんじ)にも居住していました。その地の住民の多くは塩沼の水を飲用していたので、長年病気に罹っていました。この状況を見た蘇軾は自ら鍬を手に取り、住民たちを率いて井戸を掘りました。井戸から水を汲んで飲む住民たちは病気になることが少なくなりました。この話は海南島に広まり、島中の住民たちが蘇軾に倣って井戸を掘り始め、塩沼の水を飲まなくなりました。そして蘇軾が率先して掘った井戸は住民たちに「東坡井」として親しまれてきました。

 元符三年(紀元1100年)一月、哲宗が病死し、徽宗が即位します。国中の罪人が恩赦され、垂簾朝政をする皇太后(向氏)は新旧両党の融和を図りました。五月、蘇軾はようやく流罪から赦免され、成都の玉局観の職に抜擢されました。

 恵州の流罪の七年間、蘇軾は九人の家族を失いました。こんなにも悲惨な生活でも、老人になった蘇軾は依然として達観した考えを持ち続けていました。六月、蘇軾は瓊州海峡を渡り、北へ帰る途中、月が江の上に照らしているのを見て、「私の心はいつまでも、この白く輝く満月と波立たない静かな江水と同じなのだ⑥」と詠みました。

 蘇軾が潤州(現在の江蘇省鎮江市一帯)を通過し、船で常州(現在の江蘇省常州市一帯)へ向かう道中、運河の両岸には数万人が集まってきました。これは、船とともに緩行し、数多な試練を経験した大文豪の姿を見たく、蘇軾を歓送する住民たちでした。しかし、この時の蘇軾は、長旅の疲れで病に罹っていました。

 建中靖国元年(紀元1101年)六月、蘇軾は常州に病で倒れ、七月二十八日にこの世を去りました。66歳でした。息を引き取る前に、蘇軾はそばにいる三人の息子たちに語りました。

 「私はこの一生涯、悪事をはかったことがないから、地獄に堕ちないと信じている。だからお前たちもそんなに悲しまないでくれ。極楽浄土は存在しているけど、この体じゃいけないかもしれんな…」

(おわり)


①中国語原文:淨洗鐺,少著水,柴頭罨煙焰不起。待他自熟莫催他,火侯足時他自美。黃州好豬肉,價賤如泥土。貴者不肯吃,貧者不解煮。早晨起來打兩碗,飽得自家君莫管。
②中国語原文:羅浮山下四時春,盧橘楊梅次第新。日啖荔枝三百顆,不辭長作嶺南人。『惠州一絕』より
③中国語原文:為報先生春睡足,道人輕打五更鐘。『海外上樑文口號』より
④中国語原文:莫嫌瓊雷隔雲海,聖恩尚許遙相望。『吾謫海南子由雷州被命即行了不相知至梧乃聞其尚在藤也旦夕當追及作此詩示之』より
⑤『與程秀才書』より
⑥中国語原文:我心本如此,月滿江不湍。『藤州江下夜起對月贈邵道士』より

(文・雲中君/翻訳編集・常夏)