蘇軾(そ・しょく、1036年~1101年)は、中国北宋の政治家、文豪、書家、画家です。字は子瞻(しせん)、号は東坡居士(とうばこじ)で、宋代随一の文豪として多分野で業績を残しました。政治家としての蘇軾は、伝統の礼法を守りながら弊害のある政治を改革したいという大きな抱負を掲げているため、その政治家としての道はいばらの道でした。
この文章は上下二つに分けて、蘇軾の波瀾万丈な人生の物語をご紹介します。
苦しい現実に負けない 生まれつきの達観
蘇軾の人物像を一言で表現すると、それは「達観」の一言に尽きるかもしれません。
奔放的な性格の蘇軾が詠った詩は清らかな雰囲気を放ち、読む人もそれにつれて力が湧き、心が開くようになります。後期、人生の浮き沈みはすべて因縁によるものだと悟った蘇軾が、綴った文には深い人生の哲学が含まれています。書道において、蘇軾は古代の名家を学びながら独創的な書道を開き、その書には天真爛漫な趣を感じ取れます。絵画において、蘇軾は枯木と山石を描くのを好みました。
そんな多才な蘇軾ですが、優しい人格者としても評判です。彼は慎重で緻密ですが、しきたりにはこだわりません。世の中を悟りながら、それを虚しさと感じず、おおらかでいられます。道家の修行者を祖父に持ち、佛家の修行者を父母に持ち、自身も佛の修行者でありながら儒教の影響を受け、父母や兄弟姉妹、妻子を心から愛し、先輩や友人にも誠実に接し、国と民を憂う責任感が強く、人間味の溢れる人物でした。
生まれつきの達観した考えをもって、蘇軾は苦しい現実に直面しても、その苦しみの中から楽しみを見つけることができ、どんな逆境においてもその考えがなくなることはありませんでした。今に伝わる「赤壁賦」や「念奴嬌・赤壁懷古」などの700以上の名作は、すべて朝廷から左遷された時期に創られたのです。四十年の仕官の道における浮き沈みを経験し、蘇軾は苦しみを呑み込み、修行者ならではの達観した境地にたどり着きました。
宋の仁宗から英宗、神宗、哲宗、徽宗を経て、蘇軾は北宋王朝期の重要な政治改革に影響を与えただけでなく、中国文学史における輝かしいひと時を創り出し、永らく後世に影響を与え続けています。
では、蘇軾はどのようにして大文豪になったのでしょうか。ここからは、蘇軾の生い立ちについてご紹介します。
読書人の家柄出身 京に轟く及第
北宋の仁宗・景祐三年(紀元1036年)、蘇軾は眉州眉山(現在の四川省眉山市)で生まれました。父は大文豪の蘇洵で、母は時の大理寺丞(最高裁長官相当)程文応の娘です。蘇軾が生まれた三年後、弟の蘇轍も生まれました。
蘇軾が生まれて間もなく、父の蘇洵は京に出向き遊学したので、蘇軾は八歳まで父から教わらず、母の啓蒙教育を受けました。天慶観の塾で三年間勉強しながら、十歳の時に母の教えの元に『後漢書』を読みはじめました。こうして、文人の家で生まれた蘇軾は英才教育を受け、優れた人格と学識の持ち主になりました。
紀元1056年、二十歳になった蘇軾は、弟の蘇轍と一緒に父について初めて眉山を離れ、京に向かい科挙を受けました。予備試験に無事合格した兄弟の二人は、翌年春の科挙試験も受けました。論文問題の「刑賞忠厚之至論」に対し、21歳の蘇軾が書いた論文は主試験官・欧陽脩の目に留まり、蘇軾は一発で及第しました。その年の二位となり、その名は京中に轟きました。こうして仕官の道を歩み始めた蘇軾は「簽書鳳翔府判官事」「密州知州」「徐州太守」と「湖州太守」などの要職を歴任し、政治的功績は傑出していました。
しかし、蘇軾の仕官の道は決して順風満帆ではありませんでした。
変法に反対し冤罪で投獄に至る「烏台詩案(うだいしあん)」
時は英宗の治世、治平二年(紀元1065年)の冬。蘇軾は鳳翔(ほうしょう、現在の陝西省宝鶏市一帯)での任期が満了してすぐ、父と弟のいる都・開封に向かいました。ところが、その翌年、最愛の妻・王弗が病で逝去しました。16歳の時に19歳の蘇軾と結婚した王弗も眉山の文人の家の出身で、詩と文に長けているだけでなく、蘇軾との二人の間は親密で、息子の蘇邁を授かりましたが、27の若さでこの世を去りました。その翌年、父の蘇洵も帰らぬ人となりました。蘇軾は悄然(しょうぜん)としながら、父と妻の霊柩を連れて船に乗り、故郷の眉山まで戻りました。
熙寧元年(紀元1068年)、神宗が即位されました。蘇軾は服喪を終えて眉山を離れ、官僚と役人の任免書を管理する「監官浩院」の職に就任しました。神宗は低迷する国の財政を救うべく、王安石を宰相に任用し、彼の提唱する新法を推進しました。一方、蘇軾は現状に不満があるものの、王安石の改革案を全面的に支持したわけではありませんでした。蘇軾は、変法をするとしても一歩一歩、段階的に進行する必要があり、王安石のようにすぐに結果を求めようとしてはいけないと思いました。そのため、蘇軾は何度も神宗に上書をしましたが、神宗に採用されなかっただけでなく、王安石の新法派を反対する旧法派の一員と位置付けられて、政治の場では排斥されて、しまいには密売塩に手を染めたという濡れ衣まで着せられてしまいました。
熙寧四年(紀元1071年)。36歳の蘇軾は、変法に反対しても何も変わらないと見抜き、派閥争いの渦から身を引くため、願い出て都を離れ、杭州に転任しました。蘇軾は杭州で多くの友人を作り、「飲湖上初晴後雨(湖上に飮み、初め晴るるも、後に雨ふる)」をはじめとするたくさんの詩を詠みました。政治の場での不順はかえって、蘇軾に詩人としての豊かな人生を楽しませ、より広い文学の分野を切り開くことをうながしました。
熙寧七年(紀元1074年)、蘇軾は願い出て密州に転任し、そこでまた「超然台記」「水調歌頭・中秋懷子由」「江城子・密州出獵」をはじめとする多くの名作を創りました。その後、蘇軾は徐州の転任を経て、湖州に就任しました。
元豊二年(紀元1079年)7月28日。湖州に就任して3か月目の蘇軾の家に、汴京から湖州に乗り込んできた御史台の役人が入り込み、何も言わずに蘇軾を都まで連行しました。なんと、蘇軾に恨みがある新法党を支持する役人たちが、新法派の王安石の機嫌を取るために、事実を捻じ曲げ、蘇軾の詩の一部に朝廷を誹謗中傷する内容が含まれていたと非難し、蘇軾の逮捕に至ったのです。その後まもなく、蘇軾は獄に入れられました。
蘇軾に対する審問は100日間を超えたと言われます。蘇軾の政敵たちは、蘇軾を死刑にしようと、あらゆる手段を使い、罪をでっちあげようとしました。この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれました。
蘇軾に対する逮捕は大きな非難を招きました。蘇軾が就任していた湖州、杭州などの市民たちは、僧侶を招いて蘇軾のために祈祷をしただけでなく、皇太子の教師を務めた張方平も、吏部侍郎を勤めた範鎮も、蘇軾のために陳情書を上書しました。また、神宗の祖母まで斡旋してくれたので、蘇軾の文才が好きな神宗は、特別の取り計らいで蘇軾を死刑にせず、国政誹謗の罪を犯したとして、黄州(現在の湖北省黃岡県)の俸禄も実権もない団練副使に左遷させました。
元豊三年(紀元1080年)、蘇軾一家は黄州に到着しました。俸禄のない生活が厳しい中、蘇軾は「定惠院」というお寺に泊まり、過去の貯蓄をもって倹約な生活を暮らすしかありませんでした。旧友の馬正卿はこの状況を看過できず、黄州城東の荒地数十畝(ムー)を蘇軾に譲渡しました。蘇軾はこの土地を「東坡」と名づけて、自ら鋤を執って荒地を開墾し、住宅を建て、後妻の王潤之と苦楽を共にしました。
黄州での生活は経済的にも決して楽ではありませんでしたが、達観している蘇軾はこのような生活からも楽しみを見つけ出していました。蘇軾は「晴耕雨読」の生活を送り、自身が農作業を行っていた自ら開墾した荒地「東坡」に深い愛着を持つようになりました。「東坡」は人生における大きな障壁でしたが、その障壁から逃避せず、めげずに前進することを、蘇軾は決意できました。一年の苦労を掛けて、蘇軾は「東坡」の傍に書斎を建て、「東坡雪堂」と命名し、これに因んで自らを「東坡居士」と号したのです。
「東坡」生活がもたらす 蘇軾の文学成長と中国文学史の飛躍
「烏台詩案」による流罪という挫折は蘇軾に大きなダメージを与えましたが、蘇軾はこれを機に、自身の人間として至らない点を深く反省できました。その中で生み出されたのは修養に関する「前赤壁賦」や「念奴嬌・赤壁懷古」「後赤壁賦」など、人生における変化と不変を論じ、自身の人生の態度を語りました。この時の蘇軾は文学で一段と大きく成長しただけでなく、個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、現実を超越した聡明な人生哲学をもたらしました。その豪放な人となりを文字に落とし込み、蘇軾は流暢で開放的な作品を次々と世に送り出し、芸術表現の独自の境地を切り開き、後世の中国文学史に飛躍的な影響を与えました。
書道において、蘇軾は行書と楷書の両方に長けており、その力強く流麗な筆遣いで、宋王朝期の書道四大家においても黄庭堅(こう・ていけん)、米芾(べい・ふつ)と蔡襄(さい・じょう)を越えて一位になります。また絵画において、蘇軾は活気に満ちた墨線を駆使して、枯れ木や竹、山石を逞しく表現し、後世の文人画にも大きな影響を与えました。さらに、学術著作の面においても、『易伝』『書法』などの著作で、深い知識と鋭い洞察力をもって道理を分析し、優れた著作を世に送り出しました。
元豊七年(紀元1084年)、蘇軾は神宗の勅命により黄州を離れ、汝州(現在の河南省汝南県)の団練副使に赴任します。途中、金陵(現在の江蘇省南京市)を通過する時、昔の政敵・王安石と出会いましたが、二人はとても深く会話を交わしたそうです。蘇軾は遠慮せず、王安石が西に軍を出したことと地方で多くの人に罪を被せたことは、先祖代々の寛大なやり方に背いていることを正々堂々と叱責しました。王安石も人生において様々なことを経験し心が広くなったので、蘇軾を責めようとせず、「第二の東坡のような人物が現れるまで、あと何世紀かかるだろう!」と周りの人たちに言ったそうです。
(つづく)
(文・雲中君/翻訳編集・常夏)