弘文天皇像(法傳寺所蔵)(在位期間672年1月9日 - 672年8月21日)(パブリック・ドメイン)

一、壬申の乱で敗北した皇子

 648年、大友皇子は天智天皇の長子として生まれました。文武に長けた大友皇子は天智天皇から寵愛を受け、671年1月、日本最初の太政大臣(最高の官職)に任命され、天智天皇のもとで政務を補佐しました。

 一方、大海人皇子は、兄の天智天皇を手伝い、大化改新政治の確立に尽力しましたが、皇嗣問題などが原因で不和となり、天智天皇の晩年に政権中枢を離れて吉野宮へ退きながらも、多くの支持を得て兵を集めました。

 671年10月、天智天皇が病に倒れ、翌年の1月に崩御しました。

 天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子が対立し、いわゆる「壬申の乱」が起きます。

 機先を制したのは大海人皇子で、東国の豪族などを次々と味方に付け、各地で勝利を収め、追い詰められた大友皇子は敗走し、首を吊って自決しました。

 壬申の乱の終結後、大海人皇子は天武天皇として即位し、中央集権国家の形成を推し進めました。

 ところが、ここで疑問が一つ残ります。

 それは天智天皇が崩御してから大海人皇子が壬申の乱で勝利を収めるまでの約7ヶ月間、大友皇子が即位式を行って天皇になったのか、それとも行わないうちに死去したのか、ということです。

 日本の最古の正史である『日本書紀』は、大友皇子の即位を認めず、即位する前に自害したとしています。しかし、7ヶ月間も天皇が空位になるとは考えにくく、事実上大友皇子が天皇の地位を継いだと主張する声もあります。

 江戸時代から明治時代の初め頃になると、大友皇子即位説が有力となります。1657年、徳川光圀が編纂に着手した『大日本史』は、大友天皇は即位して天皇になっていたと主張し、これを受け入れた明治政府は、明治3年(1870)に、大友皇子に諡号(弘文天皇)を贈りました。現在、弘文天皇は第三十九代の天皇に列せられ、在位期間は672年1月9日〜8月21日となっています。

二、懐風藻に記された皇子の素顔

 皇位継承争いに敗れ、短い生涯を閉じた大友皇子(弘文天皇)は一体どのような人物だったのでしょうか。

 日本最古の漢詩集『懐風藻』開巻には、大友皇子の伝記と詩二篇が収められており、その人物像が浮き彫りになっています。

 以下は『懐風藻』(講談社学術文庫)の「大友皇子伝記」(現代語訳)より引用したものです。

1)堂々たる風貌

 大友皇子は天智天皇の第一皇子である。逞ましく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る目もとは美しかった。唐からの使者、劉徳高は一目見て、並外れた偉い人物と見てこういった。
 「この皇子の風采・骨柄をみると世間並みの人ではない。日本の国などに生きる人ではない」と。

2)継承権が奪われる夢の逸話

 皇子はある夜夢をみた。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げもって、皇子に奉った。するとふとだれかが腋の下の方に現われて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事こまかに、この旨をお話しになった。内大臣は歎きながら、

 「恐らく天智天皇崩御ののちに、悪賢い者が皇位の隙をねらうでしょう。しかしわたしは普段申し上げておりました。『どうしてこんな事が起りえましょう』と。わたしはこう聞いております。天の道は人に対して公平であり、善を行う者だけを助けるのです。どうか大王さま徳を積まれますようお努めください………」と申し上げた。

3)政治力と優れた才能

 皇子がようやく二十歳になられたとき、太政大臣の要職を拝命し、もろもろの政治を取りはかられた。皇子は博学で、各種の方面に通じ、文芸武芸の才能にめぐまれていた。はじめて政治を自分で執り行うようになったとき、多くの臣下たちは恐れ服し、慎しみ畏まらない者はいなかった。年二十三の時に皇太子になられた。………皇子は生まれつき悟りが早く、元来ひろく古事に興味を持たれていた。筆を執れば文章となり、ことばを出すとすぐれた論となった。当時の議論の相手となった者は皇子の博学に感嘆していた。学問を始められてからまだ日が浅いのに、詩文の才能は日に日に新たにみがかれていった。壬申の乱にあい、天から与えられた運命を全うすることができないで、二十五歳の年齢でこの世を去られた。

 『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集で、奈良時代に書かれたものです。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船だと言われているため、大友皇子を同情的に書かれていると思われます。

 『懐風藻』にも大友皇子が即位したとは書かれていませんが、ただし、大友皇子の最期について、「天命を果たさなかった」と記されています。

 天命は天から与えられた使命の意味です。つまり大友皇子が天智天皇の正統な継承者であったが、壬申の乱によってその天命を遂げることができなかった、と『懐風藻』が主張しているように思えます。

三、まとめ

 壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子は、673年、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。

 天武天皇はこれまでの豪族による合議制を廃し、天皇を中心とした中央集権の政治体制を推進しました。その一環として「八色の姓」(やくさのかばね)や「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはらりょう)の制定、国史『日本書紀』「古事記」の編纂など、様々な政策を手がけました。

 そして、天武天皇はこれまでの「大王」に代わって「天皇」という称号を用い、「日本」という国号を採用したと見られています。

 天武天皇が行った国づくりは、現在も続く制度の基盤になっていると言えます。

 一方、もし壬申の乱で大友皇子が勝利していたら、日本はどうなっていたのでしょうか?

 日本の法治国家としての成立がもっと遅れていた可能性があると見られています。しかし、もし大友皇子が本当に天命を受けて天下を治める者であったならば、彼にも立派な国づくりの構想があったはずです。その内容はどういうものだったのか、その国家形成への青写真には何が描かれていたかは、非常に興味深いところです。

 いずれにしても、壬申の乱は古代日本のターニングポイントとなる大きな事件だったと言えるでしょう。

参考文献:懐風藻(講談社学術文庫)全訳注 江口 孝夫

(文・一心)