(絵:志清/看中国)

 「言必ず信あり、行必ず果あり」という言葉をご存知でしょうか。これは孔子の名言で、「言ったからにはその約束を守り、行なう以上はそのことをやり遂げる」という意味です。中国の伝統的な美徳を表しており、多くの中国人の座右の銘でもあります。
 古代の中国人にとって、「約束」はとても重大な事でした。君子は軽々しく約束をせず、できないことは軽々しく約束しません。いざ約束したら、どんな困難があっても必ず約束を守り、何とかして達成するのが君子なのです。
 しかし、何千年もの間、人々が信じてきたこの名言は、孔子の本意を断片的に解釈したものに過ぎなかったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?

約束を守る物語

 「約束を守る」について話すと、皆さんは必ずと言っていいほど、いくつかの「約束を守る」に関する物語が思い浮かぶでしょう。ここでは、約束を守った古代中国人の物語を二つご紹介します。

 漢王朝期の朱暉(しゅ・き)は太学で学んでいる時、張堪(ちょう・かん)という人と出会いました。張堪は朱暉の品行を尊敬し、彼を高く評価していましたが、朱暉は自身がただの太学生であり、官位の高い張堪とはあまり親しくすることを遠慮していました。ある時、張堪は朱暉に対して「あなたは本当に自制する人で、信頼できる。私は妻と子供をあなたに託したい」と言いました。張堪は高徳高望の先輩なので、朱暉はこの重大な発言にどう反応すべきかわからず、ただ敬意をもって拱手の礼をしただけでした。
 清廉な役人として勤めた張堪が亡くなった後、ほとんど財産を残していませんでした。張家が貧困になったと聞いた朱暉は、自ら張家に訪問し、時折お金や食糧を贈って援助しました。朱暉の息子はとても困惑しており、父親に「お父さんと張堪さんはどのような親交があったのですか?私は彼の話しを一度も聞いたことがありません」と尋ねました。朱暉は「張堪さんは私に対して、親友としての信頼を寄せてくださいました。私も張堪さんの託しを心から受け入れていたのです」と答えました。
 朱暉のもう一人の友人・陳揖(ちん・ゆう)が、息子の陳友を残して早世しました。朱暉は、父親としての陳揖の責任を果たすために、全力を尽くして陳友を助けました。ある時、南陽(現在の河南省南陽市)の太守が朱暉の息子を役人に任命しようとしましたが、朱暉は自分の息子の代わりに陳友を推薦しました。またある年、南陽で大飢饉が発生し、朱暉は自身の全財産を取り出して周囲の人々を救済しました。
 その後、朱暉は尚書令に、息子の朱頷は陳の相に、孫の朱穆は冀州の刺史に任命され、祖父から孫までの三世代がすべて重職(じゅうしょく)に就きました。これは朱暉の約束を守り、人を助け、徳行を積み重ねた福報(ふくほう)だと、南陽の人々に言われていました。①

 明王朝期の名臣である楊博(よう・はく)の父・楊公は、かつて淮揚地方(現在の江蘇省一帯)で商売をしていた商人でした。ある日、関中(現在の陝西省一帯)から来た塩商人が、一千両のお金を楊家に預け、一時的に保管を楊公に頼みました。しかし、その塩商人が去った後、二度と戻らなかったのです。楊公はどうすればいいのか分からず、そのお金を花鉢に埋め入れ、その上にお花を植えました。そして、関中まで使いを派遣してその塩商人を探しました。ようやく塩商人を見つけたところ、塩商人はすでに亡くなっており、その一人の息子だけがいました。
 楊公がこの状況を知ると、その息子を楊家に招き、花鉢を指して「これはあなたの父親が生前に預けたお金ですので、これをお持ち帰りください」と言いました。商人の息子はとても驚き、受け取ることをためらいました。楊公は「これはあなたの家の財産ですので、どうぞ受け取ってください」と言い、さらに事情の詳細を説明しました。商人の息子はとても感動し、再三にお礼を言ってその金を持ち帰りました。
 その後、楊公の息子と孫はそれぞれ吏部尚書と戸部尚書まで昇進しました。②

 これらの二つの話を読んだ後、古代中国人の約束を守る精神や、孤児を託すことができるほど信頼のおける人格の持ち主に対する印象が深まったことでしょう。そのような人々が世代をわたって名誉を得ることができるのは、天が徳を厚く報いることの証であることに間違いがありませんね。

「言必ず信あり、行必ず果あり」の本当の意味

 ところが、孔子が言った「言必ず信あり、行必ず果あり」という言葉はそれで終わりではなく、続きがあるのです。その続きが前の言葉よりもずっと重要で、孔子の本当に言いたいことなのです。
 「言必ず信あり、行必ず果あり、硜硜然たりて小人なる也③」
 その意味は「口に出したことは必ず実行する、やり出したことはあくまでやりとげる、といったような人は、石ころ見たようにこちこちしていて、融通がきかないところがあり、人物の型は小さい」というのです。
 孔子は、「言必ず信あり、行必ず果あり」というのは、子供でも知っている一般的な道理であり、ただ約束を守るだけであれば、それはただの普通の人だということです。真に知恵のある人にとって、「信義」には前提条件があります。頑なに約束を固守し、他のことを一切無視するのは、孔子が提唱する君子の行動ではありません。
 では、その「信義」の前提条件は何でしょうか?孔子は『論語・衛霊公』で答えを示しています。
 「君子は貞にして諒ならず④」
 その意味は「君子は正道を固く守り、小さな信義にこだわらない」というのです。孔子は「信義」という道徳的な基準を重視しますが、それは「正道」を前提とする必要があり、「仁」の大本が含まれています。大本の「仁」から離れて語られる「信義」は、真の信義ではありません。
 孟子も「言必ずしも信ならず、行必ずしも果ならず、ただ義の在所のままにする⑤」と、同様の意見を述べていました。つまり、約束していたことが「仁」や「義」に合致しない場合、その約束を果たしたり達成したりする必要はないということです。

 『左伝』は、このような物語を記録しています。
 楚の平王には「勝」という名前の孫がいて、呉の国に住んでいました。楚の令尹(れいいん、宰相相当)子西は、鄭の国からの救援要請に応じられる将がいなかったので、勝を楚の国に呼び戻そうと思っていました。しかし、葉公(沈諸梁)は反対し、彼が帰国すれば必ず混乱を引き起こすだろうと考えていました。
 子西は、勝がとても信用できる人物だと聞いていたので、彼が混乱を引き起こすことはないと考えていました。しかし、葉公は約束を守ることが必ずしも「信」を意味するわけではないと指摘しました。勝はたくさんの死士を養い、天下を得た後に死士たちと一緒に天下を享受すると約束していましたが、このような「言葉」はとても不義であり、信用できないと葉公は述べました。
 子西は葉公の言葉に従わず、勝を楚の国に呼び戻しましたが、勝はやがて反乱(楚の白公の乱)を起こし、令尹の子西と子期の二人を朝廷で殺害し、さらには王に迫って退位させようとしました。⑥

 『荘子・盗跖』の中でもこのような物語があります。
 魯の国の尾生(びせい)という男性が、愛する女性と橋の下で会う約束をし、橋の下で彼女を待っていたところ、上流で降った雨のため川の水かさが増してきました。尾生は流されないように橋の柱に抱きついたまま、彼女の到着を待ち続け、しまいには溺れて死んでしまいました。
 この物語は後世にも伝わり、「尾生の信」という言葉も「固く約束を守ること」や「ばか正直で、融通のきかないこと」を意味するようになりました。『史記』『戦国策』『漢書』などの歴史書の登場人物の会話の中で、「信用」の代表として尾生がよく言及されていますが、尾生のこのような「信」は儒家が推奨するものではありません。意味もなく命を犠牲にすることは、「仁」にも「義」にも合わず、「正道」にも反しているからです。

 勿論、約束を守ることは誠実な人間であることの核心であり、人としての道徳的な基準を満たす要求であり、自分自身の良心への忠誠と他人への責任を持つことなのです。しかし、儒家の思想も実際には柔軟性を重視しています。固まった約束とは違い、人間は考えを変えることができます。
 多くの場合、私たちは特定の前提条件で他人と約束を交わしますが、時間が経つと、当初の約束の前提条件が存在しなくなったり、本質的に変化したりして、約束が実質的に無意味になることもあります。このような時に、無理にその古い約束を守り続けると、心理的な負担が増えるだけなのです。
 古代中国人は約束を守り、言動一致を心掛け、一言の約束を一生忘れず、真の良心、正義、感謝の心を持つ人となりました。しかし、時代は移り変わり、人々の心は昔とは異なりますので、真の「仁」や「義」の意味については、私たち自身が人生の中で徐々に理解する必要があるのではないでしょうか。


①『後漢書<朱樂何列傳>』より
②『德育古鑒』より
③『論語・子路』より
④『論語・衛靈公』より
⑤中国語原文:孟子曰:「大人者,言不必信,行不必果,惟義所在。」(『孟子・離婁下』より)
⑥『春秋左傳・哀公十六年』より

(翻訳・宴楽)