中国における隋代以降、近代以前の最高学府である国子監(こくしかん)(Peiyu Liu, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

 現代社会では、一つでも外国語を学ぶことで、見える世界が大きく広がります。そこで、「翻訳者」として働く人々も、多くの場面で世界各国間のコミュニケーションを促進しています。
 古代において、中国は海外の異民族と頻繁に交流をし、中国自体も多民族な国でした。そのため、中国の歴代の朝廷では専門職や専門機関を設けて翻訳を行っていました。今回は、古代中国の翻訳者の姿を見てみましょう。

 周王朝期以前には、異なる方角の言語を翻訳する役人がそれぞれ異なる呼び名を持っていました。東方の言語を翻訳する者は「寄(き)」、南方の言語を翻訳する者は「像(ぞう)」、西方の言語を翻訳する者は「狄鞮(てきでい)」、北方の言語を翻訳する者は「譯(やく)」と呼ばれていました。
 周王朝期以降、外国や異民族の言語に精通する人々は「像胥(ぞうしょ)」と総称されました。「像胥」という職は、蛮族や閩貉戌狄などの隣国に出向き、これら周辺民族の事情を把握する人々、つまり文献に記録された史上最古の「翻訳官」のことです。彼らは王の命令を各地に伝えて、各地の状況を王に報告する職務でしたので、諸侯を安撫する王の統治に役立っていました。「像胥」は、外族の言語に対する熟知度により、「上士一人、中士二人、下士八人、及び徒二十八人」の階層に分けられていました。

 漢の武帝の時代になると、朝廷は少数民族と外国の事務を管轄する部門「大鴻臚(だいこうろ)」を設立し、その下には翻訳を専門とする属官(ぞっかん)がいました。
 一部の学者によれば、秦漢以来、北方の匈奴は常に朝廷の主要な問題であり、北方の事務を処理することは朝廷の重要な政務であったため、周王朝期の「像胥」を北方の言語を精通する「譯」に改名したと考えられます。
 さらに、国際交流の需要に対応するため、漢では学校で外国語教育を開始し、翻訳の専門家を育成していました。

魏晋から唐まで

 魏晋南北朝の時代には、各民族がさらに大いに融合し、外国語を話せる人が増えてきました。唐王朝期になると、中国と外国の関係がさらに密接になり、翻訳者の数も増えました。しかし、全体的に見ると、南北朝から唐王朝にかけて、公式の翻訳機関と翻訳者は主に仏教経典の翻訳を行っていました。唐王朝期の翻訳者と翻訳された仏教経典の数は中国史上最多でした。
 それに比べて、公式に編成された翻訳者はとても限られており、『唐六典』には、「鴻臚寺の翻訳者は合計20人」と記録されています。また、皇帝の詔勅を起草する機関・中書省(ちゅうしょしょう)にも翻訳者が配置され、「直中書譯語(中書省直属の翻訳者)」と呼ばれていました。翻訳者の地位や品級(ひんきゅう)はそれほど高くなく、昇進は七品以下までに制限されていました。しかし、彼らはしばしば外交使節団として重要な任務に派遣されていました。

 宋・遼・金が対立していた時期に、自国と他国をよりよく理解する需要から、宋では官吏登用試験に女真語、契丹語、西夏語の翻訳という問題を追加しました。一方、西夏、遼、金の国々は、中原地域の先進的な文化を吸収するため、翻訳をとりわけ重視しました。
 党項(タングート)族の李元昊(り・げんこう)は西夏を建国し、西夏文字を創製し、儒教を重視し、仏教を興しました。官庁は貴族官僚の子弟を選任し、『孫子兵法』『六韜』『貞観政要』などの大量の漢文典籍と仏教経典の翻訳を行いました。一方、西夏の書籍出版を担当する「刻字司」は仏経や仏画の印刷を担当する公式機関で、翻訳業務とは関連がありませんでした。
 契丹(キタイ)族の耶律阿保機(やりつ・あぼき)が遼を建国し、漢字を模倣して契丹文字を創製し、また漢制を模倣して官制を設立しました。遼は漢文の書籍の収集だけでなく、翻訳業務にも重みを置き、州以上の行政機関には専門の翻訳機関が設立されました。遼の道宗は勅命で翻訳者の昇進等級を定め、勤務時間の長さや仕事のレベルに応じて昇進を決定し、翻訳者を奨励しました。
 女真(ジュシェン)族の完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が金を建国し、女真文字を創製し、漢化政策を推進しました。朝廷は次々と「譯經所」や「弘文院」を設立し、『孝経』『易経』『書(書経)』『論語』『孟子』などの漢文典籍と儒教の経典を女真文に翻訳しました。金の世宗は宰相たちに対して、「朕が五経の翻訳を命じるのは、女真人に仁義道德の所在を知らせるため」と述べました。

 モンゴル族のクビライが元を建国し、パスパ文字を元の公式文字として推進しましたが、結局は既存のモンゴル文字、漢字、チベット文字を置き換えることはできませんでした。元はモンゴル部、モンゴル官学、タングート学、トド学などの官庁を次々と設立し、言語文化の人材を育成し、モンゴル語、ウイグル語、チベット語の書籍の翻訳を担当させました。
 元が大都(現在の北京)に設立した「会同館」は、正式に口頭翻訳を担当する公式機関でした。元朝の時代には、中国に滞在する西洋人の数がとても多く、それまでのどの時代よりも遥かに多かったのです。その中には口頭翻訳者として働くことができる人々もおり、彼らはモンゴル語で「kelemürči」と呼ばれ、非公式の官職を持っていました。

 明王朝初期、朱元璋は応天府に「会同館」を設立するだけでなく、蒙古語と漢語の対訳辞書『華夷譯語』の編纂も命じました。これは、官僚が外交交渉の過程で言語のコミュニケーションを容易にするためでした。
 明の成祖は初めて京に「四夷館」を設立し、筆記翻訳を専門に行わせました。これは翰林院に所属する機構で、国子監の学生を選抜して訓練しました。下には八つの館が分かれており、韃靼館(モンゴル語)、女直館(女真語)、西番館(チベット語)、西天館(サンスクリット)、回回館(ペルシャ語)、高昌館(チャガタイ語)、百夷館(タイ<傣>語)、緬甸館(ビルマ語)があり、「翻訳生、通事を置き、言語と文字を通訳する」ことが求められました。さらに、暹羅館(タイ語)、八百館(タイ語北部方言)が追加され、合計で十の館となりました。
 その後「四夷館」は次々と拡大し、明の成化五年(紀元1469年)までには、朝鮮館(朝鮮語)、日本館(日本語)、琉球館(琉球語)、安南館(ベトナム語)、真臘館(クメール語)、占城館(チャム語)、爪哇館(ジャワ語)、蘇門答喇館(アチェ語)、滿剌加館(マレー語)など、18の支館が設立され、まさに大国の勢いを見せていました。

 清の順治元年(1644年)、清は首都を北京に遷し、中国支配を開始しました。そこで「四夷館」を「四譯館」、「百夷館」を「百譯館」に改名し、韃靼館と女直館を廃止しました。
 乾隆帝の時代には、「四譯館」と少数民族の官僚や外国の使節を専門に接待する「会同館」が合併され、「会同四譯館」に改名されました。「西域」と「八夷」の二つの館が設けられ、各館の『譯語』が再編纂されました。これらの通訳官の職級は依然として高くなく、一般的には七、八品でした。
 光緒帝の時代には、各使節団の主席通訳官の待遇が初めて向上し、正五品に定められ、限定一名とされました。
 全体的に見ると、清朝は鎖国の方向に進み、外国との交流を望まず、翻訳の専門家の育成にも重きを置きませんでした。清王朝末期になると、官庁が必要とする翻訳の専門家は、派遣留学生の中から探すしかありませんでした。

 以上、中国古代の翻訳者の事情を皆さんにご紹介しました。時代が進むにつれて、中国の国際交流は日々増していき、当時の中国が文化で優れた成果を上げていたことを証明しています。「四夷館」に設けられた言語の中には、現在ではあまり使われていないものもありますが、翻訳者の存在は今日まで変わらず重要なのです。

(文・欧高尚/翻訳・宴楽)