宋王朝期になると、休日の数がさらに増えました。(パブリック・ドメイン)

 「休暇は、よりよく働くために存在する」という言葉を、皆さんは聞いたことがありますでしょうか。忙しく働く現代社会の人々なら、大きな仕事のプレッシャーの中で、誰もが心から「連休」が早く来ることを願っているでしょう。
 しかし、仕事のプレッシャーが比較的少なく、勤勉に働いていた古代中国の人々にとって、過度の休息はむしろ良くないことでした。そのため、古代中国の平民には「休暇」の概念がありませんでした。では、古代中国の役人たちはどのように休暇を取っていたのでしょうか?彼らは休日をどのように過ごしていたのでしょうか?

古代中国人の大型連休~宋王朝期の「ゴールデンウィーク」

 秦王朝期以前、決まった休暇制度がなく、主な休みはすべて祭祀行為から派生していました。秦王朝期には、国家の行政管理体制が日々完備され、役人たちは比較的に整備された休暇制度を持つようになり、これを「告帰(こくき)」と呼びました。
 漢王朝期からは、決まった休暇制度が設けられました。『漢律』の記載によると、漢王朝では5日ごとに1日の休みが設定され、これを「休沐(きゅうもく)」といいます①。さらに、漢王朝期には冬至、夏至などの節気をも休日として設定し、不幸がある場合には最短で36日、最長で3年間の弔事休暇制度もありました。
 漢王朝期から隋王朝期まで、役人は5日に1日の休日がありました。魏晋南北朝時代には「番假」と呼ばれる輪番休暇制度が登場しました。
 唐王朝期からは、一旬(10日)に1日休むという「旬假」制度が設けられ、これで年間定休日は計36日となりました。唐の玄宗皇帝以来、皇帝の誕生日は「誕節」として国を挙げて祝う祝日としても定められました。「千秋節」は唐の玄宗皇帝が誕生日に基づいて定めた祝日で、休みは3日間あります。また、唐王朝期の帰省休暇は、役人の勤務地と里親との距離に基づいて決定されました。例えば、里親が勤務地より500里(約250km)以上離れたところに住んでいると、その役人は5年ごとに1回、15日間の帰省休暇を使って、両親をお見舞いすることができます。里親が勤務地より3,000里(約1,500km)以上離れたところに住んでいる場合は、その役人は3年ごとに1回、35日間の帰省休暇を使って、両親をお見舞いすることができます。
 宋王朝期になると、休日の数がさらに増えました。文献によると、元旦、寒食節(かんしょくせつ、おおよそ冬至から105日目)、冬至はそれぞれ7日間の休みがあり、今日の「ゴールデンウィーク」に似ています。上元節(旧暦正月15日)、夏至、中元節(旧暦7月15日)はそれぞれ3日間、立春と清明は1日休みます。そして年末年始になると、毎年12月20日から休みが始まり、翌年の正月20日まで、まるごと1ヶ月間休みます。旧暦の正月20日は「天穿日」、つまり民間伝承における「女媧が天を補った日」とされています。宋の役人はこの日に公印を封印して公務を行わず、翌日になってから正式に公務を始めます。宋の神宗の時代では、役人たちの年間休日は124日に達していました。
 宋王朝期には、他にも多くの特別な休日がありました。例えば、太祖の父が亡くなった12月7日は7日間の休みと、仁宗の母の誕生日である12月10日も7日間の休みがありました。宋の真宗は、正月の3日に天書が人間界に降りてきたことを発見したので、「天慶節」を設立し、5日間の休みを設定しました。
 宋王朝期の後、役人たちの休日は減少し始めました。元王朝期には、全国の役人の法定休日は年間16日に縮小されました。
 明王朝の初期、太祖の朱元璋は春節、冬至、そして皇帝の誕生日だけを休日としました。その後、月3日間の休日と一部の法定休日が復活しましたが、年間休日は合計約50日でした。清王朝期の休日制度は基本的に明王朝期と同じく、大きな変化はありませんでした。

休暇中の人々(パブリック・ドメイン)

古代中国人の大型連休の楽しみ方~明王朝期の「旅行ガイド」

 漢王朝期の「休沐」制度では、休息やリラクゼーションよりも、身だしなみを整えることが重視されていました。古代中国では、入浴は重要な活動であり「身体を洗い徳を浴びる」という効果があると伝わるため、人々はパーソナル・クリーニングとケアにかなりの時間を費やすことが多かったそうです。また、「休沐」は入浴のための日だけでなく、実家に帰る日でもありました。
 魏晋南北朝期になると、休日の楽しみ方が豊かになりました。囲碁、双六、投壺などの活動が登場し、その中でも囲碁が最も人気でした。
 唐王朝期になると、高い場所に登って遠くを眺める「登高眺遠」という風習が盛んになりました。孫思邈は『千金月令』で、「重陽の日(9月9日)には、必ず美食とお酒を持って高い場所に登り、遠くを眺めながら宴会を楽しみ、秋の気分を満喫する」と記録しています。それまでの「登高」は「悪を避ける」という意味が強かったが、唐王朝期になるとその概念が薄れ、代わりに健康維持や行楽が主題となりました。
 宋王朝期には、祝日や休日の遊び方がさらに豊かになりました。灯りを楽しむ、月を楽しむ、花を楽しむ、歌舞や雑技を観賞する、外出して遊ぶなどの活動に加えて、賭博(ギャンブル)も登場し、「休日の消費」はとても活発でした。囲碁や麻雀などの遊びが全国的に流行し、釣りや闘蟋(とうしつ、コオロギ相撲)などの民間の娯楽が広く愛され、各種の居酒屋、茶屋、軽食屋が至る所にあるほか、設備が高級でサービスが整っており、今日の「五つ星ホテル」と比類できる「樊楼」も登場しました。
 明清王朝期には、休日が減少したため、遠出する活動もそれに応じて減少しました。親戚や友人を訪ねる他に、当時の人々に「入浴」が流行していました。この時期の「入浴」は、漢王朝期の「休沐」から大きく変わり、公共の浴場が登場し、「入浴」は会話やエンタメを楽しむレジャー活動になりました。
 明の中後期には、経済と水運の発展により、外出旅行者が徐々に増加し、中国最古の旅行ガイドブック『一統路程図記』が登場しました。著者は徽州の商人である黄汴(こう・べん)で、1570年に蘇州で刊行されました。
 豊富な休暇の楽しみ方がある一方で、「休日出勤」や「副業」も現れました。西漢王朝期には、盗賊を捕まえる役職にあった張扶という名前の役人が、休日にもよく残業していたため、上司から「家庭をもっと大切に」と諭されました②。また、東漢王朝期には、尚子平という名前の役人が、休日に山へ木を切りに行き、家計を補っていました③。

「休沐」は入浴のための日だけでなく、実家に帰る日でもありました。(パブリック・ドメイン)

 以上、古代中国人の休暇と、休暇中に何をしていたかについてご紹介しました。今後の大型連休の中で、読者の皆さんに新たな視点と参考になれば幸いです。


①漢律:吏五日得一下沐,言休息以洗沐也。(『太平御覧・治道部十五<急假>』より)
②及日至休吏,賊曹掾張扶獨不肯休,坐曹治事。宣出教曰:「蓋禮貴和,人道尚通。日至,吏以令休,所繇來久。曹雖有公職事,家亦望私恩意。掾宜從眾,歸對妻子,設酒肴,請鄰里,壹笑相樂,斯亦可矣!」扶慚愧。官屬善之。(『漢書・薛宣朱博傳』より)
③尚栩先人尚子平,有道術,為縣功曹。休歸自入山,擔薪賣以食飲。(『太平御覽・職官部六十二<功曹參軍>』より)

(翻訳・宴楽)