古代中国の女性将軍と言えば、花木蘭(ムーラン)、穆桂英(ぼくけいえい)、楊門女将(ようもんじょしょう)といった有名なヒロインの名前が必ず挙がるでしょう。しかし、中国史上初の女性将軍は、実は殷商の時代に生まれた、商王武丁(ぶてい)の王妃でした。彼女の名前は婦好(ふこう)です。
商王武丁
武丁は、商王朝の23代目の王です。59年間の治世(紀元前1250年~紀元前1192年)の間、天を敬い人徳を養い、民の苦しみに寄り添い、衰退していた商王朝を復興させました。後世はその政治的功績を「武丁の中興」と評価しました。武丁は自ら統率した軍隊の「三師」の官職を組織し、数十回出征した後、反逆していた諸侯を取り戻し、商王朝の領土を大幅に拡大しました。
『史記』には「武丁は政を修め、徳を行い、天下は咸(ことごと)く驩(よろこ)び、殷の道は復興した(註)」と記録されています。このような偉大な君主には、よき大臣と賢明な宰相の存在以外に、よきパートナーの存在があったのです。
商王武丁の最愛の后(きさき)
商王武丁の多くの夫人の中で、婦好(ふこう)は武丁の最初の后であり、最も愛された妻でした。婦好は武丁と結婚して王の妻となった後、武丁は彼女にかなり多くの土地と人民を与えました。領内では尊敬を込めて「婦好」と呼ばれていました。婦好の廟号は「辛」で、商王朝の後世の人々は敬意を込めて「母辛」と呼びました。殷遺跡から出土した数万点の甲骨文には、「婦好」に関する記述が200点以上あります。武丁は甲骨を使って神に対して祈り・占い、その内容は婦好の出征や出産、病気など、大小さまざまな側面が含まれていました。武丁の婦好に対する深く誠実な愛は、欠けて擦り減ってしまった甲骨を通して、今でもひしひしと伝わっています。
武丁と結婚する以前の婦好は、普通とは異なる出自と知識を持った特定の部族の首領か姫だったのではないかと推測されていました。婦好は優れた教養を持ち、甲骨文を彫ることもできました。そのため武丁は常に、当時非常に重要な祭祀を彼女に仕切らせ、祭祀の文章を読誦することを頼みました。婦好は占い師としての役目を任され、武丁の時期の女性政治家にもなりました。同時に、婦好は軍事戦略家でもあり、何度も軍隊を率いて出征し、大きな功績を残しました。
婦好の輝かしい戦功
婦好は出征すると必勝し、20か国以上を次々と打ち破り、商王朝の領土を拡大するために不朽の戦功を立てました。その中で、羌(きょう)との戦いでは、武丁は商の半分以上の兵力一万三千余りを彼女に差し出しました。この戦いは武丁時代の最大の出兵規模でした。商王朝側の最高統帥は婦好で、長い経験と豊富な経歴をもっており、数々の武功をあげた名将をみな、婦好が統率しました。戦いの後、古代西方の部族である羌族の力は大幅に弱まり、商王朝の西の国境は安定しました。この婦好の戦いに関して、中国神話の黄帝と蚩尤(しゆう)の間の伝説的な戦いにも引けを取らない、甲骨文に記録されている商王朝の歴史上最大の戦であると歴史学者は認めています。
当時、首都安陽(現在の山西省中南部)の西には「土方」と呼ばれる屈強な部族がいました。彼らはしばしば商の国境を意のままに侵略し、人口や財物を略奪しました。それは商王朝にとって長年の大きな悩みでした。そのため、武丁は婦好に軍隊を率いて出征するよう命じました。一度の戦いで侵入してきた敵を撃退し、勝利を収めると、婦好は勝利に乗じて攻撃を続け、徹底的に土方を打ち破りました。それ以来、土方は二度と侵入することができず、最終的に商の領土に組み込まれました。
婦好の墓には4本の銅の鉞(まさかり)があり、そのうち2本の大きな銅鉞には龍と虎の紋様が刻まれており、重さは9kgほどで、表面には「婦好」の文字が刻まれています。大きな青銅の鉞は実戦用の武器ではなく、統帥の権威の象徴であり、商や周の時期の皇帝や最高権力を持った王の指揮官のみが使用できる儀式用の道具でした。婦好の4本の銅鉞は、彼女の極めて高い軍事的権限と威厳を表しています。
文武両道に精通し祭事に才能を発揮する婦好
商王朝の時代、重大な仕事があるたびに、神の御霊を祭祀し、占いで事の成行を天に問います。その祭司を務め、儀式を司ることが許されたのは、最も高貴な人物か、あるいは神と意志の疎通ができる能力を持つ人だけでした。
甲骨には、婦好が商王朝を代表してどのように重大な儀式を取り仕切ったのかを記録する十数の文が彫られています。女性の身でありながら国家の祭器を主管した史上初の人物でした。
婦好は、祭祀と征戦という二つの最も重要な国家の大事で重要な役割を果たしていました。これは婦好の非凡な才能を示すとともに、武丁が婦好に対して絶大な信頼を寄せていたことを示しています。
さらに、婦好は歴史上初めて青銅製の鼎(かなえ)を作った女性でもありました。「鼎」は国の重要な器であり、勝手に造ることは許されません。しかし、婦好は自分の領地を保有し、さらに三千人を超える直系部隊を持っていました。その年代において、並の小国の全部の兵力でもこの数字に達しないかもしれません。そのため、婦好は経済的自立と十分な富によって、自分で大規模の青銅製品を鋳造することができました。その一つが「司母辛鼎」でした。
婦好の死後
この稀に見る威風堂々たる女性は33歳で亡くなりました。武丁は愛する理解者を失ったことを嘆き悲しみました。彼は婦好を王家の陵墓には埋葬せず、彼女が住んでいた宮殿の祭祀の廟付近に埋葬し、墓の上に「母辛宗」の宗廟を作りしました。武丁は子や孫たちを率いて、婦好のために何度も何度も大規模な祭祀を執り行いました。国家の戦事が有るたび、武丁は自ら大臣を率いて婦好の祭祀を行い、天に上った彼女の霊にご加護を求めました。
1970年代、河南省安陽市小屯村の殷遺跡が相次いで発掘されました。かつて安陽に定住していた商王11人の大きな墓は、三千年の歴史の中で盗まれ、空っぽの状態で残っています。驚くべきことに、王陵エリアにはない婦好の墓だけが完全に元からあった通りに保存されていたのです。これは商王朝の陵墓の中で一度も盗難に遭っていない唯一の墓であり、3,200年以上経った今でも墓の主の身元を特定することができます。中国で最も早い、豊富な文字と文物が残っている唯一の発掘墓でもあります
婦好の比類ない歴史的風韻と英雄的な業績は、今を生きる私たちの目の前に、その当時繁栄していた商王朝を復活させました。それと同時に、これまでの商を研究する学者たちにとって不明瞭だった多くの問題も解決され、商王朝文明を全面的に理解することができ、中国古代文化を研究することに大きな意義をもたらしています。
註:
中国語原文:武丁修政行徳、天下咸歓、殷道復興。(『史記・殷本紀』より)
(翻訳・夜香木)