春秋時代を生きた中国の大思想家・孔子には数千人の学生がいたと伝えられているが、中でも有名だったのは子貢と子路だった。子貢は魯の国(現在の山東省南部)の商人で、常に諸国を渡り歩いていた。一方の子路は勇猛果敢で武勇に長けた人物だった。

魯の国には、他国で奴隷とされた自国民を見つけた場合、身代金を支払いその者を魯の国まで連れ戻せば、国が身代金を補てんするという法律があった。国民が互いに助け合うことを奨励するこの法律は非常に良いものとされた。ある日、子貢が一人の奴隷を見つけ、身代金を払って自国に返させた。政府が賞金を彼に渡そうとすると、子貢はこれを拒否した。一般人なら子貢は金銭欲のない高尚な人物だと思うだろう。

しかし子貢の行いは不適切だったと孔子は指摘した。「子貢、あなたは間違っている」と孔子は言った。「あなたがこのようにしたから魯の国民はもはや同胞を救わないかもしれない。奴隷を解放して政府から賞金をもらえば子貢より道徳性がないこととなる、かといって賞金をもらえないなら損をする一方だ。だから多くの人が遠慮しかねない。誰も人を助ける時に迷いが生じ、よくない影響が出てしまう。あなたのこういうやり方はよくない影響を社会にもたらしかねないのだ。」

対照的なのは子路の事例だ。ある日、子路が道を歩いているとおぼれかけた人を見つけた。子路は迷わず飛び込み、その人を助けた。助けられた人は感激し、家の牛を子路に送った。子路はうれしく思い、牛を連れて帰った。孔子がこの出来事を知ると子路をほめた。子路はその行いにより、善良な行いをすれば良い報いが伴うことを世に知らしめたからだ。そうすれば魯の国の人々の多くは喜んで人助けをするようになり、他人の命を救うようになる。

一般的な見方であれば、人助けをして見返りを受け取った子路より、良い行いをしたにも関わらず賞金を貰わなかった子貢のほうが道徳性に優れていると考えるだろう。しかし、孔子は既存の概念にとらわれず、その出来事が世の中に与える影響をも考慮に入れていた。このように、物事を細かく分析し、より長い目で見ることも欠かせないのだ。

(翻訳・時葦瑩)

 

原文:

「呂氏春秋・察微」

「魯國之法,魯人為人臣妾於諸侯、有能贖之者,取其金於府。子貢贖魯人於諸侯,來而讓不取其金。孔子曰:賜失之矣。自今以往,魯人不贖人矣。取其金則無損於行,不取其金則不復贖人矣。子路拯溺者,其人拜之以牛,子路受之。孔子曰:魯人必拯溺者矣。孔子見之以細,觀化遠也。」

*呂氏春秋(りょししゅんじゅう)は、戦国時代末期、秦の相国・呂不韋が食客に編纂させた書物で、紀元前239年に完成した。十二紀・八覧・六論から構成され、儒家・道家を中心としつつ、諸子百家の思想を幅広く取り入れた。