日本には「八景」と名のつく景勝地が多くあります。調査によると、日本全国には、800以上の「八景」が存在し、約700年の歴史があるとされています。
日本の「八景」のモデルとされているが中国の「瀟湘八景」です。
「瀟湘八景」は、中国湖南省洞庭湖周辺の八つの風景を指しています。北宋時代(11世紀)に活躍した画家・宋廸(そうよう)が、それを画題として描き、四季や朝暮に変化する自然の風景を、「瀟湘夜雨」、「平沙落雁 」、「煙寺晩鐘 」、「山市晴嵐」、「江天暮雪 」、「漁村夕照」、 「洞庭秋月 」、「遠浦帰帆 」 という八景に凝縮しました。
古くから「瀟湘八景」は画題として好まれ、流行し、その影響はやがて日本にまで及びました。
一、「金沢八景」を命名した明の僧侶 東皐心越(とうこうしんえつ)
「金沢八景」は、金沢の八つの勝景をあてはめたものです。
「金沢八景」を命名したのは、中国明代の僧、東皐心越(1639〜1696)だと言われています。
1676年、心越禅師は清の圧政から逃れるため、杭州の西湖にあった永福寺から、日本に亡命しました。来日した後、心越は徳川光圀に招かれ、水戸祇園寺を開山し、独特な禅風を築きました。また心越は七弦琴、篆刻、目薬なども日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖、日本篆刻(てんこく)の祖とされています。
元禄七年(1694)、心越は金沢を訪れました。
小高い山頂に建つ地蔵院・能見堂から眺望した金沢の美しさに感激した彼は、「瀟湘八景」になぞらえて、八編の漢詩に詠みました。この詩が後に「金沢八景」という呼称が生まれるきっかけとなったそうです。
八編の漢詩は、「洲崎晴嵐」、「瀬戸秋月」、「小泉夜雨」、「乙艫帰帆」、「称名晩鐘」、「平潟落雁」、「内川暮雪」、「野島夕照」となっており、いずれも上の二字は金沢の土地から、下の二字は「瀟湘八景」から取られています。
心越の漢詩によって「金沢八景」の名は高まり、多くの文人がこの地を訪れるようになり、庶民の観光も盛んになったそうです。
そして、歌川広重が描いた「武州金沢八景」の絵画は、「金沢八景」をより世に広めたのです。
二、歌川広重が描いた「金沢八景」
歌川広重(1797〜1858)が「金沢八景」を描いたのは江戸後期の天保年間とされています。海、山、島が織りなす美しい景観を、精緻な筆致で情感豊かに描き、金沢の当時の美しい姿を見事に創り出しているこの作品は、古き良き金沢の風景を思い浮かべさせてくれます。
以下は、歌川広重が描いた「武州金沢八景」となります。絵の中には京極高門(1658-1721)による和歌が刻まれています。
現在は、埋め立てが進み、建築物が立ち並び、金沢の当時の景色は見られなくなりましたが、先人たちが残してくれた詩や絵のおかげで、金沢八景の当時の美しい姿は今も伝わっています。
ちなみに、日本各地には、「八景」が多く存在しているだけではなく、それが風景評価法の一つとして、都市計画にも応用されており、その人気度や知名度は、中国を上回るとさえ言われています。
参考文献:日本における「八景」について〜景物の歴史的変遷を中心に〜 石立裕子
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(文・一心)