諸葛亮が魏軍を破る(北京・頤和園の回廊絵画)(flickr/shizhao CC BY-SA 2.0

 「諸葛孔明」の話をすると、多くの人は、彼が頭にかぶっている「綸巾(かんきん)」のほか、手に持つ「白羽扇(はくうせん)」を思い浮かべるでしょう。
 東晋時代を生きた人物に関する説話の短編小説集『語林』では、諸葛孔明について「白い輿に乗り、葛巾をかぶり、羽扇を手に軍を指揮した」との描写があります①。人々の印象において、諸葛孔明の羽扇は普通のものではなく、知恵と才能の象徴とされています。それは特別な意味を持つアイテムとなり、諸葛孔明の名と同じく心に深く刻まれています。そのため、諸葛孔明が登場する芸術作品では、彼が常に羽扇を手にしています。
 人々の目には、諸葛孔明が持つ非凡な能力は、彼が常に手にしていた羽毛扇と関連があるように見えます。そのため、この羽扇と羽扇の由来には、さまざまな不思議な伝説が存在しています。

 鵝毛扇の起源については、民間で多くの説が伝わっています。
 ある物語によると、名士である黄承彦(こう・しょうげん)の娘・黄月英(こう・げつえい)は、決して醜い顔ではなく、実際にはとても美人であり才能に溢れた女性でした。黄承彦は、有能な男に彼女は美貌だけで才能がないと誤解させないよう、あえて娘を「阿醜(ア・チョウ、不細工の女)」と呼んでいました。
 実際のところ、黄月英は名師のもとで学び、文才だけでなく武術にも優れていました。修業を終えた際には、師から「明」と「亮」の二文字が書かれた鵝毛扇が贈られました。この二文字には、攻城や国を治めるための策略がびっしり書き込まれていました。師は黄月英に「名前に『明』と『亮』という文字がある人が、理想の夫になる」と告げました。後に、黄月英は名が「亮」で字が「孔明」の諸葛家の次男・諸葛孔明と結婚し、鵝毛扇を彼に贈りました。孔明はこの鵝毛扇を大変気に入り、手放すことがありませんでした。これは夫婦間の深い愛情の表明とともに、扇に書かれた策略を孔明が巧みに使っていたことも示しています。そのため、孔明は春夏秋冬を問わず、常に鵝毛扇を手にしていました。
 もう一つの物語では、この羽扇は水鏡先生(司馬徽<しば・き>)からの贈り物だったとされています。諸葛孔明が学問を学び始めた当初、先生の教えの真意を理解できなかったため、怒った水鏡先生は自らの著書を焼き払い、孔明を山から追い出しました。しかし、水鏡先生は妻に頼み、「八卦の衣」と「羽毛扇」の二つの物を孔明に送りました。孔明が難題に悩むと、その羽毛扇を軽く扇(あお)ぐだけで、心がすっきりと晴れるようになり、羽毛扇を扇ぎながら考えると、水鏡先生の深い教えが理解できるようになります。後に、孔明が軍を指揮する際にも、この扇を扇ぐだけで、戦略が自ずと浮かんできます。
 また他の物語では、羽扇は諸葛孔明の義父である黄承彦から直接贈られた物だったとされています。鵝(ガチョウ)が大好きで家に多く飼っていた黄承彦は、古今の珍しい書物を家に収めていました。黄承彦が娘を諸葛孔明に嫁がせる際、結納金の代わりに多くの書物を贈りました。孔明はこれらの書物を熱心に読み、妻と共に陣法と兵法を研究したので、文武両道に通じ、名声を遠くに轟かせました。後に、劉備が「三顧の礼」で孔明を招く際、黄承彦は送別の宴を開き、鵝の羽で作った扇を孔明に贈りました。「鵝は警戒心が強く、少しの物音や動きにも敏感です。この鵝毛の扇を身につけて、常に警戒心を持ち、常に慎重であるように」と、黄承彦が孔明に託したと言われています。

 また、いくつかの伝説では、羽扇は神話の中の宝物となっています。
 ある伝説によると、この羽扇は西王母②から授かったものとされています。諸葛孔明は天界にいる文曲星で、玉帝は彼に劉備を助けて天下を平定するよう命じました。劉備は武力面が弱かったため、西王母は自分が飼っていた白鳥の羽で羽扇を作り、それを孔明に持たせて、孔明を人間界に送りました。博望坡の戦いや赤壁の戦いで、孔明はこの羽扇で風を起こし、曹操の軍を打ち負かしたそうです。後に街亭の戦いでの敗北は、孔明がこの羽扇を持っていなかったからだと言われています。
 もう一つの伝説によると、この羽扇は鵝(ガチョウ)の羽毛ではなく、鷹の羽毛で作られたとされています。その鷹は1万8000年の修行を経て、老人の姿に化し、孔明の住む臥龍崗(がりゅうこう)に現れました。諸葛孔明は彼を尊敬し、彼から多くの知識を学びましたが、老人はいつも行方をくらましてしまいます。ある日、諸葛孔明はこっそりと老人の後について、深山まで行きましたが、そこには老人の姿はなく、代わりに一羽の鷹が木の上に止まっていました。そこで孔明がはじめて師匠が鷹だったことを知りました。しかし、その鷹は「わしはもうすぐ死ぬ。わしの羽毛をあんたに残すから、羽扇を作れ。急難に合う時にこの羽扇を振れば、解決策が見つかるだろう」と言葉を残し、死にました。孔明の羽扇がこのように作られたと伝えられています。
 また他の伝説によると、あの鷹は諸葛孔明の師匠ではなく、害をなす鷹の怪物だったとされています。春になると、この鷹の怪物は百里の範囲内のムギの苗を食べ尽くし、三日ごとに酔いつぶれるまでお酒を飲んでいました。そのため、この地域の人々は収穫がなくなることが多かったのです。諸葛孔明は人々のために害を除くべく、鷹の怪物が酔いつぶれている隙に退治し、その羽毛で羽扇を作りました。以来、その地域は鷹の怪物に悩まされることはなく、春に植えた苗がいつも豊作になりました。そして、この羽扇は諸葛孔明と共に三国時代の舞台で大活躍したと言われています。

 諸葛孔明の手に持つ羽扇にまつわる伝説は、これだけに留まらないかもしれません。これらの伝説について細かく検証すると、全く成り立たないかもしれませんが、伝説に込められた諸葛孔明への尊敬の気持ちは、紛れもない本物なのです。


①中国語原文:諸葛武侯與宣王在滑濱,將戰,宣王戎服蒞事,使人觀武侯,乃乘素輿,著葛巾,持白羽扇,指麾三軍。(『裴子語林』より)
②西王母(せいおうぼ)は、中国で古くから信仰された女仙、女神。

(翻訳・宴楽)