元・王冕『墨梅図』(パブリック・ドメイン)(『墨梅』の詩がある)

 わが家では、池のほとりの木の下で硯を洗う。
 花が咲けば、梅の花びらに淡い墨の色。
 花の色を私は自慢したいと思っていない。
 望むのは、清らかな香気が天地に満ちることだけだ。
 ――王冕『墨梅』①

 真冬の雪や冷たい風を恐れず、堂々と咲き誇る梅の花。強い意志と忍耐力の象徴として、古来、多くの文人墨客は梅を題材として好み、様々な名作を世に残しました。

 梅の花を好む歴代の詩人や画家の中に、元の時代の詩人・画家、王冕(おう・べん)は前を承(う)け後を啓(ひら)いた大家でした。彼の「墨梅(ぼくばい)」つまり墨のみで描いた梅の絵は、独特の創意をもって独自の画境を切り開き、後世に大きな影響を与えました。

 この有名な『墨梅』の詩は、王冕の数ある『墨梅図(ぼくばいず)』の一つに書き添えられた題詩です。詩の中に描写された墨梅は、上品な芳香を放ち、気迫があり、独特な気質が群を抜いており、梅の花の気高さが反映されただけでなく、王冕自身の俗世に媚びない高尚な品格も表されています。

凛々しい風骨『墨梅図』

 王冕は宋・元の時代の水墨画の技法を伝承しながら、新しい技法を融合し、数十年の実践を重ねて、重厚で秀逸な独特の作風を作り上げました。彼の筆のもとで、まばらに咲く梅、盛りと咲く梅、雪と風を耐えている梅、霧の中に浮かぶ梅、それぞれの情趣が異なります。彼は梅の忍耐強さと高潔な気韻を入神の域まで見事に表現しました。

 王冕の革新は墨の表現技法だけではなく、絵の構図にも現れています。その画風も古来の作品と異なり、目新しいものでした。王冕が描いた『墨梅図』は数多くあり、こちらの『墨梅図』は幹から一本の枝が横に勢いよく伸び出ており、幹と枝と花の構図にメリハリがあり、主従と明暗の階層がはっきりしています。花びらとしべは濃い墨で描いて、とても清新で秀麗な姿を呈し、特別な情趣が感じられます。枝には梅の花々が咲き乱れ、つぼみもあれば、満開のものもあります。優雅で潔白な梅の花々と力強く逞しく伸びる枝が互いを輝かせ、寒風にも霜雪にも負けず、凛々しく咲き誇る梅の様子を表現しています。

元・王冕『墨梅図』(パブリック・ドメイン)

承前啓後(しょうぜんけいご)の梅の画の大家

 王冕(1310年~1359年)は越州諸曁県(現在の浙江省諸曁市轄)の出身で、字は元章、号は煮石山農・飯牛翁・会稽外史・梅花屋主などがあります。王冕は生涯梅の花を画題として好み、梅を植え、梅を詠み、梅を描き続け、「墨梅」を描く大家として名を残しました。

 王冕は幼い頃から聡敏で勉学に励んでいました。子供の頃、毎日牛を放し飼いにする時間を利用して絵を描いていました。清王朝中期の白話小説『儒林外史(じゅりんがいし)』では、王冕が小さい時に絵画の勉強に注ぐ努力に関する物語を多く描写しました。成年後、王冕は各地を遊歴し、政治の腐敗と民衆の苦しい生活を目の当たりにしました。彼は権勢に迎合する時流に従いたくないので、翰林院②への仕官の推薦を辞退し、妻子を連れて会稽郡九里山(現在の浙江省紹興市轄)の麓に隠居しました。昼間は農業をし、夜は本を読んだり絵を描いたりして、質素倹約の生活を送りました。住居の周囲に千本余りの梅の木を植え、自宅を「梅花屋」と呼んでいました。

 人柄が立派で、群を抜いた気骨を持つ王冕。彼の画を見ていると、清らかな空気が押し寄せてくるように心の奥まで沁みると感じられます。彼の描いた「墨梅」には、信念を曲げず屈服しない気性が与えられていました。王冕は、自分を梅の花になぞらえて、自分が名利に淡泊で、高潔で超逸な思い、周りに流されない志を梅の花に託して表したのです。


①吾家洗硯池頭樹,個個花開淡墨痕。不要人誇好顏色,只留清氣滿乾坤。
②翰林院(かんりんいん)とは、中国の役所名。唐の玄宗の時代以来、高名な儒学者・学士を召し、詔勅の起草などに当たらせた役所。清朝では国史の編纂、経書の侍講などを主に担当した。

(文・韓雨薇/翻訳・心静)