一、開眼法要直前に損壊した「京都大仏」
天正14年(1586)、秀吉は太政大臣に就任し、天皇より豊臣姓を賜りました。自らの威光を世に示し、豊臣一族の繁栄を願い、秀吉は奈良東大寺大仏(15メートル)よりも大きな大仏を、京都で営造することを発願しました。
9年後の文禄4年(1595年)4月、京都東山山麓にて、縦幅88メートル、横幅54メートル、高さ49メートルの壮大な大仏殿がほぼ完成し、中に像高6丈3尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏が安置されました。
大仏殿(方広寺)は西向きに建てられ、境内は現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館の3か所が収まる広さがあったと思われます。
大仏像と大仏殿の建立は、天下人となった豊臣秀吉の圧倒的な権勢と多大なる財力を示したものでした。
ところが、予想もしなかった天災が押し寄せます。
文禄5年7月13日(1596年9月5日)、慶長伏見付近で推定マグニチュード7.5以上の大きな地震が発生しました。大仏は地震によって大きな被害を受け、胸が崩れ、左手が落ち、全身の所々にひびが入り、無惨な姿となってしまいました。
それは予定されていた大仏の開眼供養(旧暦8月18日)の直前に起きた出来事でした。
二、大破した大仏に激怒した秀吉
これだけの天変地異が起きた場合、本来なら、天下人として、それを自分への戒めとして真摯に受け止め、自らの言動に過ちがないか反省し、政策の修正や変更を行うのが一般的ですが、残念ながら、秀吉はそのように悟らず、むしろ大仏に不遜な態度を取っていました。
大仏像が損害したことに、秀吉は大変憤り、「自分の身も守れないで大勢の人間を救えるか」と、大仏に対して暴言を吐き、一説では、大仏の眉間目掛けて矢を放ったとも言われています。
大仏は大破したままの姿でしばらく放置された後、秀吉の命令によって取り壊されました。
大仏に対する不遜な態度を取った原因について、秀吉は大仏を信仰の対象としてではなく、京都に巨大な大仏と大仏殿を造立し、自らの権力を誇示することが主な目的であったからだ、と多くの歴史学者や宗教者が見解を示しています。
大仏が倒壊した翌年の1597年、秀吉は信濃国善光寺の本尊阿弥陀如来を移して大仏殿に安置しました。1598年8月、秀吉の容態が悪化したことで善光寺へ阿弥陀如来を返還しましたが、同月18日秀吉は死去しました。
大仏開眼法要の直前に襲って来た巨大地震は、秀吉の晩年、さらには豊臣家の命運を暗示していたかのようです。
三、京都大仏のその後の運命
秀吉は亡くなりましたが、京都大仏の悲劇はまだまだ続きます。
1)二代目大仏(銅造)
秀吉没後の豊臣政権は、耐震性のある銅造で大仏の再建に取り掛かりました。しかし、悲しいことに、慶長7年12月(1603年1月)、大仏鋳造中の失火で火災が発生し、大仏のみならず大仏殿までも滅失してしまいます。
その後、大仏の再建が図られ,慶長17年(1612)にほぼ完成しましたが、同寺に納めた梵鐘の銘文に「国家安康」の文字があったことから、「家康の名前を分断して呪っている」という理由で徳川家康から難癖をつけられました。その結果、大坂の陣の開戦の運びとなり、慶長20年(1615)、豊臣家は滅亡しました。
一方、2代目大仏は寛文2年(1662)の地震で再び倒壊し、寛永通宝のために鋳潰されてしまいました。
2)三代目大仏(木造)
寛文7年(1667)、新しく3代目大仏が造立されることになり、地震で損壊を免れた2代目大仏殿の補修工事も行われました。3代目大仏の高さは従前の大仏と同じく約19mでした。
しかし、残念なことに、寛政10年(1798年)の7月、大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌日まで燃え続け、3代目大仏と2代目の大仏殿は灰燼に帰しました。
3)四代目大仏(木造)
天保14年(1843)、尾張国の有志が半身の大仏像(約14メートル) を作り、仮殿に安置しました。4代目大仏は、資金不足のため、従前の大仏と異なり、躯体に金箔が貼られませんでした。
残念なことに、4代目の大仏も、昭和48(1973)年3月28日深夜の出火により、大仏殿とともにまたもや焼失してしまいました。
創建以来、昭和後期に焼失するまでの300余年の間、京の大仏は再建と焼失が繰り返され、数奇な運命を辿り、終に姿を消してしまいました。
戦国時代にポルトガルから来日した宣教師ルイス・フロイス(1532〜1597)は、自らの著書『日本史』の中で、秀吉について以下のように書き記しています。
「関白はこの寺院、その他の寺院の再建を命じたとはいえ、それは神や仏に対する畏怖なり信心に基づくものではなかった。彼は、これら神仏は偽物であり、諸国を善く治め、人間相互の調和を保つために、人が案出したものだと述べ、神仏を罵倒し軽蔑していた。〜中略〜 なんら神仏に対しては信仰も信心も有してはいなかった」(『完訳フロイス日本史5』 P.182より)
地震、落雷、火災などの自然現象によって、京都大仏は度重なる破滅的な打撃を受け、最終的に跡形もなく消えてしまいました。その不運には、何か人知を超えた大きな力が働いているように思えて仕方ありません。もしかすると、秀吉が大仏造立を発願した当初から、そのような運命が既に定められていたのかも知れません。神仏に対する敬畏の念を持つことは、形だけに留まるものではなく、真心でなければならないことを、京都大仏の悲劇から改めて思い知らされたように感じます。
(文・一心)