中国の東晋の咸和元年(紀元326年)に建立された「霊隠寺(れいいんじ)」は、中国の十大仏教寺院の一つであり、1,600年もの歴史を持ちます。西湖の西の山麓、北高峰と飛來峰の間に位置します。
この「飛来峰」は、周りの山々とは全く異なり、奇石と古木、幽洞(ゆうどう)ばかりで、その風景はまさに絶景です。咸和元年、天竺僧の慧理が杭州の地に到着し、飛来峰の景色を見て、「これはわが天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)と瓜二つだ!いつ飛来してきたのだろう?仙人や神霊が隠れている場所に違いない」と驚嘆し、その麓に寺を建立し、「霊隠」と名付けました。
霊隠寺の歴史
五代十国時代の建隆元年(紀元960年)に、仏教への信仰が厚かった呉越王の銭弘俶によって霊隠寺が再建されました。当時の霊隠寺は、九階立ての十八閣、七十七の殿堂があり、三千人前後の僧侶がここで修行をしていました。
清の康熙帝は南巡①の時、霊隠寺の後ろの山に登り景色を見ると、山間の雲と霧に包まれた霊隠寺と山林を見て、霊隠寺の名を「雲林禅寺」と改めました。
このことはもう一つの面白い話があります。南巡の康熙帝はお酒を飲んだ後、霊隠寺のために扁額を書く時、霊隠寺の「霊」の雨かんむりを大きく書きすぎてしまいました。「霊」の字を書き終わっていないのに、扁額の縦幅が足りず、残りの部分を書ききれなくなり、とても気まずい状況になりました。そんな中で、そばにいた寵臣は「いっそ『云』を添えて『雲』にしてはいかがでしょうか。これを機に『雲林禅寺』に改名するのも難しくありません」と進言しました。康熙帝はこれに応じて、扁額に『雲林禅寺』と書き、霊隠寺を「雲林禅寺」と改名したそうです。
ところが、当地の住民たちは「雲林禅寺」の名前になじめず、依然として「霊隠寺」と称しています。
霊隠寺の境内
霊隠寺境内にある建物に、「天王殿」と「大雄宝殿」があります。天王殿に鎮座している弥勒仏の像は200年の歴史を持つ文物で、その後ろに座る韋駄天像は南宋の時期に丸ごと一本のクスノキでつくられたもので、清末以降のたび重なる災害を免れました。
大雄宝殿は高さ33.6メートルで、現存する寺院建築の中で最も保存状態が良好な入母屋造りの建築物の一つです。その殿内の中央には、高さ9.1メートルの金箔を施された釈迦牟尼像が祀られています。蓮の花の座と光背(こうはい)を合わせると高19.69メートルに達します。この像は24個のクスノキで造られて、細かい細工で仏像の荘厳さを表現しました。その両側に「二十諸天」と「円覚十二菩薩」の造像が祀られ、それぞれ異なる表情が生き生きとしています。
霊隠寺と済公和尚
霊隠寺と言えば、中華圏で人気のある人物「済公和尚」のことを自ずと想起されます。
済公和尚(紹興18年12月8日(1149年1月19日) – 嘉定2年5月14日(1209年6月17日))は実在する人物で、俗名は李心遠、天台(現在の浙江省台州市轄)出身です。彼はこの霊隠寺で出家しました。
戒律を守らず、風狂②で知られる済公和尚でしたが、実は、素直な性格を持ち、神通力を持つ高僧でした。済公和尚は、並みの和尚とは一風変わっており、たまにお酒を飲みお肉を食べ、立ち振る舞いもクレイジーでした。霊隠寺は済公和尚を我慢できず、彼を追い出しました。やがて済公和尚は浄慈寺(じょうじじ)に身を置くようになりました。あの有名な「古い井戸の底から丸太を投げ上げる済公和尚」の物語は浄慈寺で起こったことでした。済公和尚は浄慈寺で余生を過ごし、最後は坐禅の姿のままこの世を去りました。
済公和尚は自由な精神の持ち主で、雲遊③を好み、中国中を縦横無尽に旅していました。しかし、済公和尚は服装がきちんとしておらず、規則正しい睡眠や食事もとらず、好きなように出入りし、だれもその行方を予測できませんでした。常人の社会生活からはみ出して、ぶらぶらとした瘋癲(ふうてん)な様子のため、済公和尚は「済顛(さいてん)」とも呼ばれました。
一方、済公和尚は他人に対してとても親切で、人助けすることが好きでした。寺の中にいる時、済公和尚は年を取った和尚や病気になった僧侶のために薬を買ってきました。雲遊の最中、過ぎる町の人々のために仏教を唱え病気を払い、健康にさせることができたので、常に感謝されていました。また、神通力を使い、愛し合っているひと組の男女を助けた物語は、神韻芸術団によって『済公和尚』という演目の舞踊劇にアレンジされ、2024年の世界巡回公演で世界中の観客にお見せしています。ユーモラスな物語と演者たちの見事な演技は、世界中の観客を喜ばせました。
済公和尚の存在は、霊隠寺が「仙人や神霊が隠れている場所」であることを証明しました。済公和尚の物語を読んで、霊隠寺に興味を持つようになる人も少なくありません。済公和尚と霊隠寺の物語は、これからも末永く語り継がれていくことでしょう。
註:
①南巡(なんじゅん)とは、南下して視察をすること。康熙帝は1684年から1707年まで六度も南巡した。
②風狂(ふうきょう)は、中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。
③雲遊(うんゆう)は仏語。あてもなく旅すること。雲が移り動くさまにたとえた語。
(翻訳編集・常夏)