知足(ちそく)の蹲踞(ただし、この画像は複製の蹲踞)(Sonic3~jawiki, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 侘び寂びと言えば、今、日本だけではなく、その概念は海外にまで広く伝わり、漢字を使っている国では「侘寂」、欧米では「Wabi-Sabi」、とそのまま使われるほど、世界共通の美意識の一つとなっています。          

 侘び寂びの意味について、「禅の影響から生まれた日本の伝統的な美意識の一つである」と説明されていますが、「侘び寂びとは何か」と聞かれたら、なかなか言葉で説明しにくいと思いませんか?

 教科書によれば、「侘び」とは、不完全な状態から引き起こされた気持ちのことで、そして「寂び」とは金属の「錆びる」に通じて、時間が経過して何もかもが失われて行くという状態から引き起こされた感情である、とのことです。

 しかし、「不完全」とか、「何もかも失われていく」という非常にネガティブな感情から、なぜ美意識が生まれたのでしょうか?

 侘び寂びは、「茶の湯」と「禅」に関係が深いと言われているため、本文では、「茶の湯」と「禅」の二つのキーワードを通して、その奥深い意味合いを探ってみたいと思います。

一、茶の伝来と普及

 奈良時代に、茶は仏教とともに遣唐使や留学僧の手によって日本へ伝来しました。

 平安時代になると、留学僧の最澄(767〜822)が茶の種子を日本に持ち帰り、比叡山の麓に植えましたが、894年の遣唐使の廃止により、茶を飲む習慣は一時途絶えてしまいました。

 平安時代末には、宋に渡った禅僧栄西(1141〜1215)が茶や茶道具を日本に持ち帰りました。当時の宋では、現在の抹茶と同じような茶を飲んでおり、精巧な道具を使用して茶を立てる作法もできていました。

 帰国した栄西は、茶の栽培、製法、飲用法、効能などの内容をまとめた『喫茶養生記』という本を書き、それを鎌倉幕府三代将軍の源実朝(1192〜1219)に献上しました。その後、茶を飲む習慣が、禅僧の間から次第に武家へと広がり、茶に用いられる道具も宋から多く輸入されるようになりました。

 室町時代になると、武家をはじめ、商人の間にも茶を飲む風習が広まっていきました。しかし、この頃は、茶を飲むことは贅沢で、闘茶とか、茶寄合とか言って、特に武家の間では、きらびやかな衣服を身につけて、豪華な食事をした後、幾種類もの茶を飲んで、産地などを言い当てることに商品をかける遊びが流行し、娯楽性の強いものとなりました。

二、禅と茶の湯

1. 「侘び茶の相」村田珠光

 世間での豪華な茶会に対し、質素で禅宗の礼法を重んじた侘び茶も誕生しました。

 「侘び茶」の創始者とされる村田珠光(1423〜1502)は、奈良の禅寺の僧でした。珠光は京都大徳寺の一休宗純にも禅を学び、茶の湯も学びました。

 禅宗では、入門する際、今までの地位や財産などをすべて捨てて、坐禅をはじめとする厳しい修行を通して、人間の様々な私欲、執着心などを取り除き、何にもとらわれない境地に至ることを目標とするものです。

 村田珠光は、貴族や武家社会で定着した豪華な茶会を否定し、「茶の作法は簡素なもので、禅の精神に沿ったものでなければならない」と考えていました。彼が茶の湯の弟子に宛てて書いたとされる「心の文」には、

 「茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは慢心と自分への執着である。巧者をねたみ、初心者を見下すことなく、良い道具を十分に味わい、堪能し、心の根底から高い品格を養い備えた上で、全てを取り払い、枯淡の境地に至ったときこそ面白い。

 この道の至言として、わが心の師となれ 心を師とするな(己の心を導く師となれ 我執にとらわれた心を師とするな)と古人もいう。」という内容を記しています。

 珠光から見れば、人々は道具に執着し、高価な唐物を人に見せびらかし、上手な人に対する妬み嫉み、初心者を見下すなど、それらの心はすべて茶の湯の道を妨げるもので、このような執着心の命ずるままに行動してはならず、自らの心をコントロールしなければならないことを忠告したのです。

 珠光は蓋の割れた陶製の風炉釜、継ぎのある茶碗、竹の茶器、竹柄杓を使い、簡素で落ち着いた草庵の茶を始め、豪華な茶会や高価な唐物を追求する人々の慢心を取り払おうとしました。

村田珠光(http://teeweg.de/, Public domain, via Wikimedia Commons)

2. 侘び茶の後継者たち

 珠光の後、侘び茶を引き継いだのは武野紹鴎(1502〜1555)でした。紹鴎は大徳寺で出家した禅僧で、歌道、香道などの高い教養を身につけた他、珠光の弟子にも茶の湯を学びました。茶の湯の真髄に目覚めた彼は、珠光の理想とした草庵の茶を一層簡素な侘び茶にしました。

大阪府堺市堺区にある大仙公園内の武野紹鷗像(ja:user:田英, Public domain, via Wikimedia Commons)

 その後の千利休(1522〜1591)も大徳寺の高僧らに参禅しました。大徳寺の古溪和尚(1532〜1597)から「三十年飽参の徒」と言われるほど、利休は三十年もの間、禅の修行に足を運び、学んでいたのです。千利休は茶道の最も大切な心として「和敬清寂」を唱えましたが、これはまさに禅の教えに根差したものです。

絹本著色千利休像 (長谷川等伯画、春屋宗園賛、不審菴蔵、重要文化財)(Public domain, via Wikimedia Commons)

 また、利休の孫で千家の三代を継いだ千宗旦(1578〜1658)は、一生涯を禅僧と同じような質素な生活を送って過ごし、侘び茶をさらに徹底させ、「茶禅一味」の境地を求めました。

 禅を学んだ茶人たちは、世俗世界への執着を否定する禅の修行から、飾りや奢りを極力に捨てて、心のきれいさを求め、禅の精神にかなった簡素で閑寂な茶道を作りました。彼らは侘び、寂びといった否定的な感情を積極的に受け入れ、清貧、簡素の中にある美的な趣を捉え返し、その中から人生の真実を見つめ、それを美意識にしようとしました。

 侘び寂びは、俗世より高い次元のもので、深い内容を持っているのです。

 今、もの静かでどことなく寂しげな境地、或いは色彩感を否定したような枯淡な趣のある風景を見た時、人々(外国人も含む)は、思わず「侘び寂び」という言葉を使ってその美しさを表現しています。それはそのような景色には、禅の教えを実践した茶人たちの美意識が息づいているからではないでしょうか。

 侘び寂びという禅の影響から生まれた美意識は、室町時代から江戸時代にかけ、さらに現在まで受け継がれてきました。 侘び寂びは今でも、日本の文学や建築物、ものづくりやファッションなど、様々なところに影響を与え、さらに世界の人々までをも魅了しています。

(文・一心)