日本では、物事をやり遂げ、立派に仕上げることを、「有終の美」、「有終の美を飾る」と言います。それは、「最後を全うして美しく締める」という意味を表すとても素敵な言葉です。
一、「有終の美」の語源
「有終の美」という言葉の語源となったのは、中国最古の詩集『詩経』の中にある一文です。『詩経』は、紀元前11世紀から7世紀までの黄河流域の国々や王宮で歌われていた詩や民謡を収録したもので、その中に登場する、「靡不有初,鮮克有終」、「初めあらざるなし、克く終わること鮮なし(すくなし)」という詩が語源だとされています。
今の言葉に訳すと、「多くの人は初めのうちは熱心に取り組むが、最後までやり遂げる人は少ない」という意味になり、一つの事をやり遂げ、立派な結果を残すことの難しさを強調するものです。
新年や新年度を迎えると、人々はしばしば新たな目標を挙げ、これからの一年の抱負を熱く語ります。しかし、何かの理由で途中で諦めたり、最後までやり遂げなかったりした経験を持つ人も多いのではないでしょうか。
二、「百里を行く者は九十を半ばとす」
中国の戦国時代の逸話をまとめた書物『戦国策』には、「行百里者半於九十。此言末路之難。」という言葉があります。これは、「百里を行く者は、九十を半ばとす。此れ末路の難きを言うなり。」という意味です。
「百里を行く者は九十を半ばとす」とは、何事も終わりの方ほど困難であるから、百里の距離を歩き通そうと思えば、旅の半分を五十里だと思わずに、九十里までたどり着いたら、やっと半分が済んだと心得なさい、と戒める言葉です。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で、「百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」と言い、九十ではまだダメだ、九十九里で半ばとしなければならないという考えを示しています。
芥川龍之介の警句は、九十九里の道を歩き通したとしても、残りの一里で妥協してしまえば、失敗に終わってしまうというものです。九十九里と最後の一里の隔たりが、雲泥の差を生じさせるため、最後の最後まで気を緩めず努力することの大切さを伝えているのだと思います。
三、「有終の美を飾る」には
物事を最後までやり遂げることは何故難しいのでしょうか。
それは、終わりに近づいた際、往々にして体力、気力、熱意など、すべてが自らの限界まで達している時でもあるからです。 体力、気力の消耗は自らの意志も消耗してしまいます。そのため、最後の一里が、これまでの九十九里よりも難しく感じるのでしょう。
また、自信の喪失も目標を放棄してしまう要因になります。
人が直面している困難がこれまでと同じであっても、長い旅による持久力、将来への期待感などの低下と共に、まして希望が見えない時は、自分の能力を懐疑したり、自信を喪失したりします。そうなると、前進するエネルギーを失い、成功する一歩手前で諦めてしまいがちです。
物事を成し遂げる最後の難関や正念場を表す「胸突き八丁」と言う言葉がありますが、これは富士登山で頂上まで八丁(約872メートル)が最も険しく、一番苦しくて、正念場であることを言います。
あと残り少しという所で、まだ何かが待ち構えているかも知れないため、九十里はまだ半分であり、それまで歩んできた九十里をもう一度歩き抜く覚悟で、気を引き締めて臨まなければならないということです。
2024年を迎えましたが、やり続けてきたこと、新たに始めようとすること、物事の大小を問わず、初志貫徹の精神で取り組んで行き、有終の美を飾りましょう。
(文・一心)