中国の李克強(68)前首相が10月27日に急死してから、一週間も経たない速さで11月2日に火葬された件について、国内外で多くの議論を巻き起こしました。李前首相の同級生・呉国光さんは、「中国共産党(以下、中共)政権における李克強の人生は悲劇そのものだった」と語りました。
李前首相の訃報が発表された後、呉国光さんは過去を偲ぶ文章を綴りました。
「今から45年前、『文革』後初の大学入試『高考』を合格して、私は李克強と一緒に北京大学に入りました。李は法律学部で、私は中国語学部でした。あの時代、大学の雰囲気が良く、学生同士の交流が頻繁だったので、私は李とすぐ知り合いました」
2022年夏、呉さんはアメリカのカリフォルニア州に引っ越しました。呉さんは旧物を整理すると、自分の大学時代の日記に、李克強との交流に関する記録を見つけました。李克強に対する印象は「自立した思考力を持つ人」だったそうです。
呉さんは文章で次のように綴りました。
「大学を卒業してから、私と李はお互いにあまり会っていませんでした。最後に顔を合わせたのは1987年。私は中共第十三回全国代表大会の準備過程における政治改革の政策設計に参加しました。ある日、共青団中央の群団組織の改革に関する座談会に参加したら、共青団中央の書記になった李克強はわざわざ私にあいさつしに来ました。しかし、当時は、李克強に対する北京大学の学生たちの不満の声が耳に入りました。不満の原因は、1986年冬に起きた中国全土に広まった学生運動の際、李克強は特別に北京大学の管理層になって、『大学を死守して、学生たちを街のデモに出してはいけない』と厳しく命令したからです。どうやら、政治の場の出世のために、李克強は自立した思考力を捨ててしまったようです」
その後、李克強の顔を見たのは、自分が香港で教授を勤めていた時に中国中央テレビの番組だったと、呉さんは語りました。「あの時、李克強はすでに河南省の省長(県知事相当)になっていました。江沢民の視察に同行している時、意気盛んだった学生時代の姿は皆無になって、官僚的な警戒感が漂っていました。こびへつらうまではしなくても、少なくとも上級の人への迎合が見えました。今から見ると、李克強の悲劇はあの時から始まったのかもしれません。もちろん、このようになったのは李克強だけではありません。出世、お金、権力を狙って、中共が必要とする、信頼する、評価する、排斥しない人になるために、意気盛んでいた若手政治家たちの大多数は、自分の思考を捻じ曲げるという道を選んだのです。このような風潮の中で、李克強は首相になったので『出世に成功した模範人物』と同年代の人たちに評価されています。しかし、『文革』後初の『高考』を合格していた世代のこの人たちが、本来、中国を毛沢東の暗黒時代から引っ張り出す力を持っていたのに、李克強を成功と評価しているのであれば、一世代の悲劇と言わずになんというのでしょうか」と、呉さんは文章で綴りました。
「この悲劇をもたらしたのは中共です。共産主義体制は良心を破壊している」と言う呉さんは「李克強が中共の体制で首相にまでなれたのは、中共の体制に適応している部分があるからです。常識と良心、そして国民を思う心を持っていても、中共に吞み込まれる運命からは逃れられません」と分析しました。
呉さんは続けて文章で綴りました。「世論では、李克強の『中国では六億人もの月収が1,000元(約2万円)だけ』という言葉を今でも覚えていますし、『自分の行いは周りの人が見ていなくても、神様が見てくれている』という言葉も多くのネットユーザーが引用しています。今でも鮮明に覚えていますが、李克強は『毛沢東時代、農民たちは物乞いに出かけるためにも、中共の組織に紹介状を発行してもらう必要がある』ということを思い出し、『中国は毛沢東の時代に後戻りしてはならない』と強く語っていました。毛沢東時代、農業の発展が遅れていた安徽省では、農民たちは毎年の冬、省を出て物乞いに出かけていました。安徽省育ちの李克強は、国民を思う心と、中共の体制に適応しようとする心の両方持っており、この相容れない矛盾が李克強に悲劇をもたらしたのです」
また、李克強と習近平の関係性について、呉さんは「李は習ほど悪い人ではないから、習に抑圧されても仕方のないことでしょう。しかしこれは習の力でもなく、中共の制度によるものなのです」とコメントしました。
呉国光さんは、米スタンフォード大学の上級研究員で、米アジア・ソサエティ政策研究所上級研究員を兼任しています。中国の政治・比較政治経済学を主な研究領域として、英語著作を10本、中国語著作を16本出版しました。
(翻訳編集・常夏)