ある日、友人と雑談していて「結婚」の話題になりました。
友人は、目にした結婚はそう悪くはないと思っていましたが、長年の観察と考察の結果、結婚はある意味「反人間性的」ではないだろうかと感じました。
友人はこのように考えました。
「人々は、『愛する相手と結婚しよう』と思って、『愛する相手』を探します。しかし、あなたが愛する相手が、必ずしもあなたを愛してくれるとは限らないし、あなたも、自分を愛してくれる人を絶対に愛せるとも限りません」
「たとえば『愛する相手』をやっと見つけた、あるいは、愛する相手も自分を愛してくれて、そこで二人が結婚した。でもその後はどうなるのでしょうか?」
「結婚してしばらく経過すると、多くの人にはもはや愛がないように見えてしまいますよね。では、その二人の間にはもう『愛』がないまま結婚生活を続けるというのは、人間の本性に反することになるのではないでしょうか?」
私もこの問題についていろいろ考えましたので、自分の考えを友人に伝えました。
「私は、まず、『愛』が結婚の基礎だと思いません。『愛』はあくまで、二人を結びつけるための過程の一つに過ぎず、それほど偉大なものでも、不可欠なものでもありません。例えば、古代中国では、お互いに見知らぬ者同士の二人が天と地を拝み、新婚夫婦の部屋に入れば、愛がなくても一生涯の夫婦となり、感情的なぶれもありませんでした。夫婦の縁は神によって定められたものですので、結婚する相手は、自分で探しても、人から紹介されても、親がお見合いをお膳立てしても、結局落ち着く先は同じ人なのかもしれません」
「次に、結婚の根本となるものは『責任』だと思います。男は家族を守る気量を備え、生活に責任を持ち、自分に人生のすべてを預けてくれた妻に対し『恩』で報います。女性は一家全員の世話をし、夫を支え、子供たちを教育する責任を持ち、夫に『義』で報います。お互いを配慮し合い、責任を負い合う過程で、お互いの『恩』と『義』を感じ合うことができます。このように、初めは愛情のないお見合い結婚であっても、愛情を育てることができ、もともと良い愛情があれば、愛情はさらに良くなっていきます。このような『責任』に基づく結婚は、愛情がすり減るのではなく、逆にだんだんと育っていくのです。そうであれば、あなたが観察したような『反人間性的』な状態、つまり、結婚してしばらくすると愛情がなくなっているのに、それでも一緒に居なければならないというような状態は起こらないでしょう」
「最後に、実は最も重要なことは、社会は大きな修行の場だということです。どのような人でも、人生は『修行の旅』です。積極的に修行する人もいれば、受け身の修行をさせられている人もいます。能動的であれ受動的であれ、誰もが社会活動による『人間関係』で起きるトラブルや困難から逃れることは出来ません」
「人生が修行であれば、人間の感情や本性、そして『人間性』は、それほど重要ではなくなりますね。なぜなら、人間の本性には佛性と魔性が混合しており、常に理性的というわけではなく、時には動物的な性質が現れることさえあり、とても不確かなものなのです。しかし、人間社会には文明があり、社会を築くことができるのは、私たち人間が動物と異なり、自分の魔性や非理性的な部分を抑制できて、確かな理性を保っているからではないでしょうか。となると、『愛がなくなったので離婚しよう』という非理性的で身勝手な気持ちは、本当にそこまで大事なのでしょうか?」
「『夫婦』は、人生で最も身近な人間関係であり、思い通りにならないことが絶対に起こるし、誰もこれを避けることはできないのです。二人が愛し合っているからトラブルを避けられるとの考えは、未熟な考えにすぎません。二人が夫婦になるのは、一方が相手に恩返しをするため、というようなよい因縁『善縁』のためか、あるいは、一方が相手から借りを取り立てる為である、というような良くない因縁『悪縁』のためかのどちらかです。善縁にも悪縁にも、それぞれ直面する苦難があります」
「人生の目的は、社会という大きな修行の場で学ぶことで、自身の魔性などの不純な部分を取り除き、自分の心の境地を向上させることなのですね。夫婦になった二人にとって、結婚生活で遭遇する苦痛は、昔犯した罪を償うためであり、結婚生活で奉仕することは、過去に受けた恩に報いているのです。結局のところ、罪の償いであれ、恩に報いることであれ、最後まで頑張れば、その負荷をきれいさっぱり下ろすことができ、命が昇華されるのです」
「『恩』と『義』は夫婦の『責任』によって成り立ちます。『責任』とは、どのような情況にあっても、どのような処遇を受けても、しっかりと果たすべきものであり、これも『修行』の一環といえます。ですから、愛などなくても、夫婦は余程のことがない限り、離婚せず、結婚生活を続けていくべきだと思います」
友人は「あなたのこの観点からの分析は確かに道理にかなっています。人間の感情にこだわらなければ、人間性と結婚の間の矛盾も存在しなくなります。遭遇した難問は、人生の修行における『試験問題』なのですね。確かに!」と納得してくれました。
(文・李青城/翻訳・夜香木)