群雄割拠の戦国時代を生きた英雄たちの中でも、越後(新潟)の武将である上杉謙信(1530~1578)は、戦国最強と言われ、「越後の虎」、「越後の龍」と称えられました。
謙信は武田信玄や織田信長などの名だたる武将と、生涯で70余りもの戦を行い、負け無しの「軍神」と評価される一方、神仏を篤く敬い、私利私欲のための戦いを行わなかったとされ、「義の武将」とも呼ばれていました。
本文では、上杉謙信の「義に生きる」人生を簡単に振り返ってみたいと思います。
一、林泉寺で過ごした少年期
享禄3年(1530)、上杉謙信は、越後守護代であった長尾為景の末子として生まれました。幼い頃の謙信は、体が弱かった兄の晴景とは反対に、とても元気で活発な子でした。
天文5年(1536)年、父為景が病死し、家督は兄の晴景が継ぐことになりました。その後、7歳の謙信は、春日山城下の曹洞宗林泉寺に預けられました。
謙信は林泉寺七世の天室光育禅師に師事し、禅と文武の薫陶を受け、学識と仏心が培われました。
正義感が強く、真っ直ぐな性格を持つ謙信は、林泉寺で修行を積みながら、武勇の遊戯にも興味を示し、城郭の模型でよく遊んでいたそうです。
7歳から14歳まで行っていた林泉寺での厳しい修行は、その後の謙信の精神の支柱となる「義」を重んじる倫理観を形成しました。
天文17年(1548)12月30日、病気がちだった兄の晴景が隠居し、19歳の謙信は兄に代わって家督を継いで越後守護代となりました。本来お坊さんになるはずたった謙信は、その後、戦国武将という定められた運命の道を歩むことになりますが、環境や立場が変わっても、彼の強い信仰心は変わることなく、義を重んじる価値観も貫かれました。
二、「義」をモットーとした正義の武将
初陣を果たしてから49歳で亡くなるまで、謙信は武田信玄や北条氏康、 織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねました。彼の生涯の71回の戦績は、「61勝2敗8分」とされています。もし事実であれば、それは驚愕的な勝率になります。
圧倒的な戦績を残した謙信ですが、その戦のほとんどは、「義」のため、他国を救援するために行ったとされています。謙信は「私利私欲のためではなく、正義のために」戦うと明言していました。
有名な「川中島の戦い」はその一つです。宿敵の武田信玄との間で、12年間に5回も行われたこの戦いが始まったきっかけは、武田信玄が信濃への侵略を試みようとしていたところ、領地を奪われた村上義清が、上杉謙信に助けを求めてきたことです。謙信からすれば、この戦いは、「義をもって不義を誅する」ために行なったものでした。
また、関東出兵についても、北条氏政に追われた関東管領の上杉憲政を庇護するのが目的だったとか、加賀の手取川の戦いで織田信長の軍を撃破したのも、信長が将軍家を蔑ろにしたことに義憤を感じて出陣したとか、言われています。
三、「敵に塩を送る」という逸話
謙信の「義」の心をよく表すのは「敵に塩を送る」と言う逸話です。
永禄11年(1568)、駿河の今井氏と相模の北条氏が一緒になって信玄の領国への塩の輸送を全面禁止にしました。それを聞いた謙信は「甲斐に塩止めをして、困るのは領民である。不勇不義の極みである」、「戦は正々堂々とするべきもので、人の弱みにつけ込むような姑息なことをするのは正義に反する」と言って、甲斐国に自国の塩を送ったそうです。謙信は、武田信玄とは宿敵同士ですが、それでも困っている時は助けるべきという「義」の心を持って、救いの手を差し伸べたのです。
この逸話から「敵に塩を送る」という言葉が生まれ、現在も「苦境にある敵を助ける」という意味の諺として使われています。
四、自らを毘沙門天の化身と称した
謙信は武神である毘沙門天を篤く崇拝し、自分を毘沙門天の生まれ変わりと称していました。
毘沙門天は仏教において天部に属する仏神で、仏法を護る護法善神の一人です。毘沙門天は別名を多聞天とも言います。そして毘沙門天は四天王の中では最強の武神だとされています。
謙信は春日山城に毘沙門堂を建立して毘沙門天の像を安置しました。そして、謙信は日々読経を欠かさず、戦の前には必ず毘沙門堂に籠り、座禅や瞑想を繰り返し、戦の時には「毘」の旗を掲げていました。謙信はよく、「我は毘沙門天と共にあり」と叫び、陣頭に立って戦い、兵士を鼓舞しました。正義のために戦うならば、必ず神様から守られると信じていたからです。
そして、謙信は肉食を断ち、生涯独身で、仏教に帰依する姿勢を崩しませんでした。
「義」は正しい行いを守ることです。堅く正義を守り、わが身の利害を顧みずに他人のために尽くす人を「義人」と言います。また、義は人間の欲望を追求する「利」と対立する概念としても考えられています。
上杉謙信は、戦国時代の武将の中でも異彩を放つ「義に生きる」男でした。彼は戦国時代の「下剋上」という風潮に流されず、私利私欲のための領土拡大を目的としない、「義」の心を持って正義を貫いた武将でした。謙信の「義に生きる」生き方は、現代人にも広く共感を持たれ、多くの人々を惹きつけています。
参考文献:民夫戸部『戦国武将の守護神たち』 日本文芸社 2011年4月
(文/一心)