「戦神」韓信(イメージ:大紀元)
三、「多々益々弁ず」
やがて、天下を統一し、漢王朝が成立しました。しかし、皇帝となった劉邦は「国士無双」と褒め称えられた韓信に嫉妬し、彼に警戒心を持ちます。
ある日、高祖の劉邦が韓信に、「わしはどれぐらいの兵の将となる器があるだろうか」と尋ねると、
韓信は「陛下は10万人の兵の将にしかなれません」と答え、
それを受けて、高祖が「では、お前はどうか」と問うと、
「兵が多ければ多いほどますます上手く処理できます」と答えました。
そこで、高祖は「ならば、どうしてわしの配下にいるのだ」と聞くと、
韓信は静かに「陛下は兵の将となることはできませんが、将の将となる器だからです。それは天が陛下に与えた能力です。人の力ではとても及びません」と答えました。
韓信がこのように言ったのは、「自分は優れた才能を持っているが、謀反の意や皇位を狙う気持ちはなく、玉座に座る人は天意によって決まり、人為で決めるものではない」と劉邦に伝えたかったからでした。
これが「多々益々弁ず」という言葉の由来です。
四、「狡兎死して走狗煮らる」
しかし、劉邦は韓信が奇才で、いずれ自分の邪魔になるのではないか、と疑いました。結果、韓信は反謀を疑われ、捕らえられました。その時、韓信は「狡兎死して走狗煮らる」(元は越王の部下『范蠡』の言葉)と言い、自分の心境を述べました。つまり、素晴らしい兎が死ねば、兎狩りの為の猟犬はもはや不要となり、煮殺されるのだという意味です。天下は劉邦のものとなりましたが、天下を取らせた最大な功労者である韓信は処刑されてしまいました。
人々は韓信が劉邦に殺害された結末に嘆息し、また、彼が生死を度外視し、然諾(ぜんだく 一旦引き受けたことは約束を守って必ず実行すること)を重んじる行為を「愚行」だと言う人もいます。しかし、秦の末の混乱局面を終結させ、漢王朝の400年の輝かしい歴史を作り出すことに於いては、韓信は不滅の功績を残し、彼の知恵、品徳、戦功は多くの言葉、物語として後世に語り継がれるのでした。
(おわり)
出典:『史記・淮陰侯列伝』
(文・一心)