「戦神」韓信(イメージ:大紀元)

 秦王朝が滅亡すると、中国は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態に戻りました。こうした中、劉邦が項羽を討って中国を再統一し、皇帝として即位し、漢王朝が成立しました。漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、それから民族として「漢民族」、文化として漢字、漢語、漢風と呼ばれました。

 劉邦に天下統一をさせた最大の功労者は他でもなく、劉邦の大将軍・韓信(かんしん、生年不詳、紀元前196年没)でした。韓信は、卓越した作戦能力を持ち、数々の戦いに勝利し、国士無双と称賛され、劉邦の覇権を決定づけるのに重要な役割を果たしました。

 韓信はいったいどのような人物なのか、彼にまつわるいくつかの言葉からその人物像を覗いてみましょう。

一、「韓信の股くぐり」

韓信の股くぐり(イメージ:大紀元)

 韓信は若い頃、町の若者にケンカを売られました。
「お前は立派な体をして、剣などを下げているが、心の中はびくびくしているのだろう。殺せるものなら、俺を刺してみろ。出来なければ俺の股の下をくぐれ。」
すると韓信は腹ばいになり、彼の股の下をくぐり抜けるのを見た人々は韓信を臆病者だと大いに笑いました。

 しかし、韓信は、「恥は一時、志は一生」と冷静に判断し、侮辱に耐える選択をしました。これが「韓信の股くぐり」と言う言葉の由来となった出来事です。 
『史記』によれば、数年後、韓信が楚王となって故国に戻った時、自分を侮辱した男を召し出して、「この男は壮士だ。あの時殺すことも出来たが、殺したからと言って名が上がるわけではない。だから我慢して、私は王の地位にまで上ることができたのだ」と言って、中尉※の位を与えたと言います。

 大きな志を持っていた韓信は股の下をくぐるという屈辱を躊躇なく受け入れ、錦を飾った後も、かつて自分を侮辱した人を恨まず、人並みならぬ心の広さを見せました。

二、「背水の陣」

 秦が滅亡した後、項羽と劉邦が天下をめぐって争いました。劉邦は項羽に味方する黄河北側の諸侯を攻略しようと、自らが率いる軍の将軍・韓信に命じて趙を攻撃させました。

 趙軍は20万の兵力を持ち、漢軍には数万の兵力しかありませんでした。韓信は軽騎兵2000人に漢軍の旗を持たせ、「敵軍は我々が逃げるのを見ると、追撃してくるだろう。お前らはその隙に城に入り、敵軍の旗を抜いて漢の旗印を立てるのだ」と指示しました。
韓信は漢軍の兵士を、川を背にした形で陣取らせました。翌朝、韓信は趙軍の反撃を見て偽って太鼓と旗を棄て、自陣の川の方へ逃げ戻るふりをしました。趙軍は追撃しようと城から出て、川の方へ襲い掛かりました。

 後に退けない漢軍は決死の覚悟で戦いました。結局趙軍は韓信を討ち損ね、諦めて城に帰ろうとしたが、自陣の旗の色が変わっているのを見て、「すでに漢軍に占領されたか」と驚き、大混乱に陥りました。

 趙軍は漢軍の挟み撃ちに会い、大敗したのです。

 後に、兵法上では上策ではない陣取りをした理由を尋ねられ、韓信は「兵法に『死地に陥れてこそ、生き延びることができ、必ず滅ぶような場においてこそ存命できる』と書いてあるではないか」と答えました。それを聞いた諸将たちは皆、感服したのでした。

 韓信は兵法を精熟し、戦術を妙用し、非凡な軍事才能を発揮しました。歴史に数々の輝かしい戦功を残した彼は、後世に「戦神」や「兵仙」と呼ばれました。

(つづく)

中尉:漢代の警護の武官であり、年俸は郡太守の年俸と相当する。

出典:『史記・淮陰侯列伝』

(文・一心)