(絵:志清/看中国)
恥を知るとは、自らの誤った行いを恥ずかしがる心があることである。孔子(紀元前552年―紀元前479年)は「己を行うに恥あり」(『論語・子路』)と、自分の行動について何が恥になるかということをわきまえている「士」の精神を賞賛していた。また、「恥を知るは勇に近し」(『礼記・中庸』)と言ったこともある。人が自らを恥ずかしがることは勇気が必要であり、恥を知ってこそ金銭の欲を抑えられ、困難に負けず、謙虚でいることができ、他人に対して思いやりを持って接することができるのだ。
孟子(紀元前372年―紀元前289年)は「羞悪の心(悪を恥じる心)がないのは、人間でない」(『孟子・公孫丑上』)と言った。孟子は性善説を唱え、人は生まれつき、哀れむ心、恥じる心、謙虚の心、是非の心を持っており、これらは仁、義、礼、智の芽生えである。これら人類にしかない善の性は畜生には備わっていない。人は悪を恥じる心があって初めて名利を前にして立派な節操を現せるのである。
孟子はまた、「人は恥知らずではならず、恥知らずの恥こそ、恥知らずなり」(『孟子・尽心上』)と言った。すわなち人は恥をなくしてはならない、恥知らずという恥は本当の恥知らずである。
自分の不足を認めるのは容易なことではない。人が自分の不足を恥と感じ、改正する勇気があれば、まだ救いがある。恥を恥と思わず、かえって自慢に思っていたら救いのないことだ。
南宋の儒学者・朱熹(しゅき、1130年―1200年)は「人に恥じありて、為すべきでないことを為さない」(『朱子語類』)という。人に恥じる心があったら、してはいけないことをしないことができる。恥を知れば、自ずと意志固く、貧富、得失、利益において取捨選択ができ、欲望に走らない。そうでなければ、恥じる心がないとなんでもやりかねない。
明王朝の学者呂坤(りょこん、1536年―1618年)は『呻吟語・治道』の中で、「五刑は一恥にかなわず」と言った。すなわち、いかなる厳しい刑罰でも、百姓に恥を知ってもらうことに敵わないである。呂坤は人に廉恥を知ってもらうことは罰することより重要だと考えており、人の道徳が高まれば、恥を知って、やるべきこととそうでないことをわきまえられるのだという。これは法を犯してから刑罰するより効率的である。ゆえに、儒家は教化することを優先し、刑罰を後にするのである。
※中国語の原文:
「行己有恥」(『論語・子路』)
「知恥近乎勇」(『礼記・中庸』)
「人不可以無恥。無恥之恥,無恥矣。」(『孟子・尽心上』)
「無羞惡之心,非人也。」(『孟子・公孫丑上』)
「人有恥,則能有所不為。」(『朱子語類・学七・力行』)
「五刑不如一恥」(『呻吟語・治道』)
(翻訳編集・北条)