霍去病(かく・きょへい、紀元前140年 – 紀元前117年)は前漢の伝説的人物で、「軍神」と称されていました。『史記』や『漢書』には、霍去病の英雄的な出来事や偉大な功績に関する記述が数多くあります。
 紀元前122年、霍去病が18歳の時、初めての遠征に出かけました。800人の騎兵を率いて砂漠の奥深くまで行き、2,028人の敵軍と、匈奴単于の祖父に当たる敵将を討ち取り、単于の叔父を捕らえました。霍去病はこの戦いでの功績により「冠軍侯」の称号を与えられ、漢の武帝からも「驃騎将軍」の称号をも与えられました。
 紀元前121年の春、霍去病は1万の騎兵を率いて6日間で1万余里を進軍し、河西まで電光石火のような進撃を行い、皋蘭山で8,960人の敵を討ち取りました。
 同年の夏、霍去病は公孫敖と一緒に匈奴を攻撃するために北上しました。公孫敖が道に迷い、霍去病と合流できなかったため、霍去病は孤軍でも匈奴に攻撃を続けると決断しました。この戦いで、霍去病は5人の匈奴の王、59人の王子、63人の重臣を俘虜にし、30,200人の敵を討ち取りました。同年の秋、匈奴の渾邪王は4万の兵を率いて前漢に帰順しました。

霍去病(中華民国・馬駘(1885-1937), Public domain, via Wikimedia Commons)

 数々の戦功が輝いていた霍去病。初めての遠征で、自軍の数倍もある匈奴の大軍に攻撃命令を下す前に、18歳の霍去病は何を考えていたのでしょうか?
 それは、三国時代の名将、趙雲の話から知り伺えます。
 『三国志』によれば、趙雲はかつて「前漢武帝の御代、名将・霍去病は、匈奴討伐を一通りなしても、『彼らを根絶できてはいないから』と、居を構えませんでした。翻るに、我らはどうでしょう?漢の国を脅かす賊・曹操は、匈奴ほどに容易い相手でしょうか?ならば我々とて、身を安んぜるには未だ尚早でありましょう①」と語りました。
 現代の高校生の年頃の少年に、どうしてこのような義理堅く、無私無欲な心境が現れたのでしょうか。

霍去病の「修身」

 古代中国では、「修身」すなわち、身を修めることが教育の主眼でした。『礼記・大学』によれば、「六芸などの基本教養を窮めた後に知に至る。知に至って後に意志が誠実となる。意志が誠実となって後に心が正しくなる。心が正しくなった後に我が身が修まる。身を修めて後に家の秩序が整う。家が整って後に国が治まる。国が治まった後には天下全体が平和になるのである②」ということです。
 では、霍去病はどのように身を修めたのでしょうか?
 『史記』によると、霍去病の叔母である「衛子夫」は、霍去病が幼い時に皇后に封じされたため、霍去病は叔父の名将である「衛青」の下で育てられました。しかし、「白登の囲(はくとうのかこい)」を経た後、匈奴はますます攻撃的になり、前漢王朝は和親をするだけでなく、年々、大量の金銀宝飾品を匈奴に献上させられ、そして交換市場をも開放させられました。それでも、匈奴は満足せず、しばしば漢王朝の国境を侵犯し、漢の民を捕らえ、漢の朝廷から金を脅し取ることもありました。そのため、漢の皇帝から庶民までも匈奴を軽蔑しつつ恐れていたのです。
 しかし、このような強くて野蛮な匈奴と面しても、霍去病は一歩も引かなかったのです。彼は漢の国民の安全を第一に考え、自分のことは考えていませんでした。このような精神は、まさに常人には手の届かないものでした。武帝は霍去病のために邸宅を建てようとしたことがありますが、霍去病は「匈奴が滅亡する前に、何をもって自分の家を作るのか」という理由で、きっぱりと断りました。このことから、霍去病の心の中では、国民を守り、国を守ることが何よりも重要だったことがわかります。

霍去病の「人柄」

 霍去病の人柄を示すもう一つのことは、自分を捨てた父親に対する態度なのです。『漢書・霍光金日磾伝』によると、霍去病の母親は平陽侯の侍女「衛少兒」であり、父親は平陽県の役人「霍仲孺」で、霍去病は二人の間の隠し子でした。霍仲孺は衛少兒が妊娠したばかりの時に彼女から離れ、平陽県に戻りました。その後、霍去病は生まれ育ち「驃騎将軍」になった後、ようやく自分の父親が誰なのかを知りました。匈奴を攻撃する途中で平陽県を通過したとき、父親の霍仲孺を迎えてきてもらい、互いに認め合ったのです。
 通常、自分と母親を捨てた者を恨むはずですが、霍去病は普通の人とは違っていました。彼はひざまずいて、「私は、旦那様の息子だとは知りませんでした」と霍仲孺に言いました。霍仲孺も恥じて「去病のような立派な将軍に後のことを託されるとは、本当に天から授かる奇跡です」と言いました。
 互いに認め合った後、霍去病は父親に農地と家を買い与え、老後も安心して暮らせるようにし、異母の弟を長安に連れてきて養育させました。この弟が後に若き漢の昭帝を補佐し、「昭宣の治」を実現させた大臣の「霍光」でした。

霍去病の「歌」

 霍去病の忠義と孝行を両全し、恨みを徳で返す感心される人柄を持ちながら、その度胸と勇気は人並み以上でした。『古今楽録』によると、霍去病が漢の武帝から「五千戸」の称号を与えられたとき、『霍将軍渡河操』という歌を歌いました。
 「周りの夷族は既に見守られており、中原の民も平和で繁栄している。国も家も平和で安定しており、我々の喜びは尽きない。武器を納め、弓や矢を武器庫に納めよ。麒麟と鳳凰の舞いは荘厳でありながら賑やかで華やかである。 天に従うことで、永遠の平和が保証される。百年の人生の中、愛する人を愛し、身近な人を大切にし、夷(夷族)も夏(中原)も代々受け継がれていくだろう。」③
 この歌の歌詞から、霍去病は、国と国民の平和と繁栄こそが自分の幸せであることが分かります。また、戦場で勇猛果敢な霍去病が、実は天下が平和で戦争がなくなることを心から願っていたことも窺えます。
 
 それゆえ、18歳の霍去病が初めて匈奴に攻め入る時、敵は多くて強かったのですが、霍去病の勇気と国と国民に対する忠誠心には敵わなかったことが分かります。このような心境があってこそ、霍去病は偉業を成し遂げることができたのです。 


①中国語原文:霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。(『三国志・蜀書六<趙雲伝>』より)
②中国語原文:物格而後知至,知至而後意誠,意誠而後心正,心正而後身修,身修而後家齊,家齊而後國治,國治而後天下平。(『禮記・大學』より)
③《古今樂錄》曰:「霍將軍去病益封萬五千戶,秩祿與大將軍等,於是志得意歡而作歌。」按《琴操》有《霍將軍渡河操》,去病所作也。「四夷既護,諸夏康兮。國家安寧,樂未央兮。載戢干戈,弓矢藏兮。麒麟來臻,鳳凰翔兮。與天相保,永無疆兮。親親百年,各延長兮。」(『樂府詩集・卷六十<琴歌>』より)

(文・雲巻/翻訳・清水小桐)