『御筆詩経図』(清王朝の乾隆帝による写本)(パブリック・ドメイン)

 「子孫に籠一杯の黄金を遺すより、経書を一冊教えるのが良い」(遺子黄金満贏、不如教子一経)。これは漢王朝時代の学者・政治家である韋賢の逸話が由来だといわれている。親は、子に多くの財産を遺す努力をするよりも、むしろ経典を教え、立派な人間に育てることが重要であると述べている。

 韋賢(いけん、紀元前140年―紀元前61年)は、字が長孺、前漢初期の人である。先祖は、元々彭城に住んでいたが、高祖父の時に鄒縣に移った。鄒縣は孟子が生まれた所であり、孔子が活動していた昔の魯国とも近いためか、儒学への情熱が並々ならぬ地方であった。

 『漢書』の記録によると、韋賢は天性が純朴で篤実(とくじつ)であり、名誉と利益に非常に淡白で、淡々としていたという。彼は幼い時から全力を傾けて本を読み、学識が非常に高く、『礼記』や『尚書』などの儒家の多くの経典に精通していた。特に『詩経』に長けていて、『詩経』をもって一家(独立の流派)を成し遂げた。当時の人々は、彼を尊敬する意味で「鄒魯(すうろ)の大儒」と呼んだ。

 漢武帝の時、董仲舒(とうちゅうじょ)の提案を受け入れ、諸子百家の中で儒家だけが重視されるようになった。この時、初めて五経博士(ごきょうはかせ、五経に精通し教授する学者)が設けられ、国家的な次元で広く儒学を普及するに至った。儒家の経書に精通した韋賢は博士に推薦された。

 当時はまだ経学の体系ができる前であり、経典ごとに複数の派に分かれ、学術的な競争が熾烈だった。例えば『易経』の場合、高氏と京氏の流派があり、『尚書』の場合でも、欧陽氏と夏侯氏の区別があった。

 ところが孔子が住んでいた魯の地方では、申公以後『詩経』の研究が活発になり、その後、江公に至り経典を学ぶ学生たちが非常に多くなった。この江公こそがまさに韋賢の師である。韋賢は師の学問の伝授を受け、一層の研究を重ね、独自の学術体系を成し遂げたので、当時「韋氏の学問」と称された。

 韋賢の評判は非常に高く、朝廷も彼を招いて博士とした。武帝の後を継いだ昭帝は韋賢を自分の師とし、『詩経』を学んだ。韋賢の官位はますます上がり、光禄大夫(こうろくたいふ)、詹事(せんじ)を経て、大鴻臚(外務大臣に相当)に至った。昭帝が崩御した後、宣帝を皇帝に擁立するうえで大きな功績があったため、関内侯に封じられ、食邑(しょくゆう、領地)を下賜された。

 宣帝が即位して3年目の年、宣帝は韋賢に丞相(じょうしょう、今の首相に相当)職を任せた。当時の韋賢は、すでに70歳を超えていた。一人の下、万人の上(一人之下、万人之上)の座に選ばれたのは、彼に対する宣帝の信任が格別だったからである。

 彼は5年間、丞相職を務めた後、高齢を理由に辞職を願い出た。宣帝は、もはや彼を引き止めることはできないことを知り、辞任を承諾した後、特別に金百斤を下賜した。数年後に韋賢が世を去ると、宣帝は「節侯」という諡号(しごう、贈り名)を追贈した。

 韋賢には4人の息子がいたが、長男の韋方山は地方県令を歴任し、次男の韋弘は東海太守を務め、三男の韋舜は儒家の礼法に基づいて故郷で父祖の眠る墳墓を守り出仕せず、四男の韋玄成は才能と学問に優れ、父親と同じように重用された。

 四男は後に丞相の地位に上がり、一家で代を継いで丞相を輩出した。故に、鄒縣周辺では、 「子孫に籠一杯の黄金を遺すより、経書を一冊教えるのが良い」という言葉が後世まで伝えられた。

(文・蓮成)