『岡山後楽園(こうらくえん)』は、茨城県水戸市の『偕楽園(かいらくえん)』、石川県金沢市の『兼六園(けんろくえん)』とならぶ日本三名園の一つです。中国地方・岡山県岡山市の中心部に位置し、広大な敷地を持ち、歴代藩主が安らぎ、手を加えた大名庭園として、日本人のみならず、世界各国の観光客をも魅了しています。
後楽園の今昔
後楽園は、岡山藩主の池田綱政(つなまさ)公が藩主の安らぎの場として、家臣の津田永忠(つだ・ながただ)に命じて造らせたもので、貞享4年(1687年)に着工し、14年の歳月をかけ、元禄13年(1700年)に一応の完成をみました。この頃は、岡山城の後ろに造られた庭園という意味で「御後園」と呼ばれていました。
享保9年(1724年)頃、綱政の子・継政(つぐまさ)は、「延養亭」の西に連なる能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に築山「唯心山(ゆいしんざん)」を築き、その麓に水路を巡らせ、「沢の池(さわのいけ)」と「廉池軒(れんちけん)」の前の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。
明和8年(1771年)頃、藩財政が窮乏し、継政の孫・治政(はるまさ)は倹約のため、園内で働く人員を削減しました。園内に広く配置された田畑の耕作に当たっていた人々も辞めさせ、一時的に芝生の庭園となりましたが、その後すぐに園内東部の大半は田畑へと戻されました。
明治4年(1871年)、池田家は「御後園」を「後楽園」と改めました。この名称は、中国・宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』に記された「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という言葉から得たものです。「先憂後楽」という言葉は「天下の人々が憂えるのに先立って憂い、天下の人が楽しんだ後に楽しむ」という意味であり、儒教精神に基づく忠国の情を意味する言葉です。
明治17年(1884年)、池田家は後楽園を岡山県に譲渡しました。岡山県庁の付属地として扱われ、同年に一般公開されるようになりました。昭和9年(1934年)には水害、昭和20年(1945年)には戦災に遭い、江戸時代の絵図などに基づいて復旧が計られましたが、園路の単純化など、災害前と変化した部分もあります。
こうして、時代ごとの藩主の好みや社会事情などの積み重ねた歴史によって、後楽園の景観は多少変化しましたが、江戸時代の姿から大きく変更することなく、現在に伝えられています。昭和27年(1952年)には、国の特別名勝に指定されました。
後楽園の園内を散策
13.3ヘクタールという「日本三名園」の中で一番の総面積を誇る後楽園。広い芝生地や池、築山、茶室は、園路や水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を眺め楽しめるよう工夫された回遊式庭園です。園内を巡る全長約640メートルの「曲水」は、池や滝に姿を変えながら、優美な水の景色を作り上げています。
正門に入る前から見える立派な大木「平四郎の松」は、まるでお辞儀をしているかのように、正門に向かって枝を張り巡らせ、私達を迎えてくれます。園内に入り順路に沿って左手に進み、繁々とした木陰を抜けると、目の前に一面が緑色の平原のように明るく広々とした庭が現れます。これは日本に広く自生している「野芝」を全体に使った広場です。この広場に入り、目の前に現れる三叉路の右を進むと、「鶴鳴館(かくめいかん)」や「延養亭(えんようてい)」の全体が見渡せます。
藩主の居間として作られた「延養亭」は、一度、戦災で焼失しましたが、昭和35年、築庭当時の後楽園を描いた『御茶屋御絵図』を元に、当時の第一級の材料と最高の職人の技術によって復元されました。藩主の座る主室からの眺めが、最も美しくなるように庭園が設計されていて、歴代藩主もここから眺めていたそうです。また「鶴鳴館」も、江戸時代から伝わってきた茅葺きの建物が戦災で焼失しましたが、その後の昭和24年、山口県岩国市の吉川邸を移築しました。武家屋敷の佇まいをよく伝える建物で、現在は、会合、展示会、婚礼などの用途で、一般の方に広く貸し出され利用されています。
「延養亭」を右側に見て小道を西に進むと、「花葉の池(かようのいけ)」が見えてきます。6~8月頃には「一天四海」という名の白いハスが見頃を迎えます。花葉の池を跨ぐ「栄唱橋(さかえさんばし)」を渡る途中、右側に「大立石(おおたていし)」が見えます。これは、元禄時代初期に巨岩を九十数個に割って運び、元の形に組み上げたもので、大名庭園ならではの豪快さを感じ、池の広さにもよく見合っています。
さらに先に進むと、「茂松庵(もうしょうあん)」とそれを囲む「二色が岡(にしきがおか)」が現れます。築庭当時、ここは、春は桜、秋は紅葉で彩られた林でした。しかし、戦後に杉の木立となり、市街地にあっては珍しく、多くの野鳥が飛来する場所となっています。その先にある「御舟入跡」は、お城から藩主が舟で渡ってくる時の舟着き場の跡で、綱政公もここを何度も通っていたとか。
「御舟入跡」を後にして、二色が岡の森を抜けると、視線は自ずと園内中央にある築山「唯心山」に留まります。「唯心山」は、綱政の子の継政が作らせた高さ約6mの築山で、その頂上に登ると、園内全体が見渡せます。山に植えられているツツジが咲く時期には、山全体が鮮やかな絶景に変わります。
「唯心山」の麓にある建物は、後楽園の特徴とされる建築物「流店(りゅうてん)」です。亭舎の中央に水路を通し、中に色彩に富んだ六個の奇石を配した、全国でも珍しい建物となっています。かつては、賓客の接待や藩主の庭廻りの時の休憩所として使われていました。戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素な佇まいを今に伝え、現在も来客の足休めの場として親しまれています。
「流店」を通る曲水の流れに辿って暫く歩くと「花交の池(かこうのいけ)」が見えてきます。園内を巡ってきた曲水の水は、薄々と「花交の滝」の音が聞こえるこの「花交の池」を通って旭川に戻って行きます。築庭当時、この周辺は、山桜や花木が入り交じった景色でした。池のほとりには「花交」と呼ばれた建物があり、池や滝にはその名が残りました。
木々に囲まれた小道を更に東に進むと、古様の趣あふれる建物「茶祖堂」が見えてきます。元々は、幕末の岡山藩家老の下屋敷(しもやしき)にあった茶室「利休堂(りきゅうどう)」を、この場所に移築した建物で、千利休を祀っていましたが、戦後の再建で、岡山の生まれで「お茶」を日本に伝えた栄西禅師も一緒に祀られたことから「茶祖堂」と呼ばれるようになりました。
「茶祖堂」を後にすると、またもや木々たちの世界に突入します。紅白、一重、八重と約100本の梅の木が植えられた「梅林」に続いて「桜林」が、そして100本のモミジが植えられた楓林の「千入の森(ちしおのもり)」があり、季節ごとに花の香りや美しい景色が楽しめます。「千入」とは「幾度も染める」という意味で、築庭当時からこの名が付いています。春の新芽の芽吹きの頃と、秋の錦織りなす紅葉の頃は絶景で、今でも園内名勝の一つとなっています。
「千入の森」を抜けると、今までの自然で曲線的な風景とは正反対の、整然とした四方形の区画が見えてきます。ここが後楽園で一番人気の「井田(せいでん)」です。「井田」とは、中国・周王朝期の田租法に習ったもので、後楽園では幕末に田畑の一部を井田の形に作りました。田園風景を好んでいた綱政のため、当初の園内は田んぼや畑が今より多く広く配置されていました。しかし、明和8年(1771年)に藩が財政難に見舞われた際、当時の藩主・治政が経費節減のために人員削減を実施。田畑だった場所に芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化しました。今は井田だけがその名残りを伝えていて、毎年六月の第二日曜日には、お田植え祭を行い、もち米を育てています。
井田の隣に、緑の優雅な曲線を描くのは、広々とした「茶畑(ちゃばたけ)」です。築庭当時からこの位置にあり、背景のゆるやかな曲線を描く土手山と調和しています。江戸時代、ここで作った葉茶は、普段、藩主が飲むお茶として使われていました。このお茶は現在でも収穫されていて、園内の売店では、歴代の藩主が飲んだお茶と同じお茶を楽しむことができます。また毎年五月の第三日曜日には、茶つみ祭が行なわれています。
「茶畑」を過ぎ西に進むと「慈眼堂(じげんどう)」が建立されています。元禄10年(1697年)に綱政が、池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀りました。今は空堂となっていますが、その境内には、花崗岩(かこうがん)を三十六個に割って組み上げた烏帽子岩(えぼしいわ)や門、板張の腰掛などが残っています。
たくさんの鯉で賑わう庭園内で一番大きな「沢の池」のほとりを西へ進むと、「五十三次腰掛茶屋」と「寒翆細響軒(かんすいさいきょうけん)」があります。更に進み、さっきからずっと聞こえていたタンチョウの鳴き声を辿ると、鶴舎(つるしゃ)が現れます。ここでは8羽のタンチョウを飼育しており、最年長の1羽が平成4年生まれ、30歳を超えました。藩主・綱政が、延養亭の前庭に降り立ったタンチョウをみて、これを瑞兆だと喜び、歌を詠んだという記録も残っています。戦後、鶴の養育が一時途絶えてしまいましたが、中国の学者からタンチョウ2羽が贈られ再開しました。その後、北海道・釧路市の協力もあり多く鶴が生まれ育ち、その美しい姿が園内に蘇りました。
「観蓮節(かんれんせつ)」
様々なイベントが開催され魅力いっぱいの後楽園。伝統を大事にして数百年も続いている「お田植え祭」や「後楽能(こうらくのう)」から、現代のライトアップ技術を駆使して変幻自在な姿を見せる「幻想庭園」まで、一年中を通して来客を楽しませてくれます。その大小合わせて20近くの年間行事の中で最も特別なのは、毎年7月の第一日曜日に開催される「観蓮節(かんれんせつ)」だと言えるでしょう。
通常は7時半の開園ですが、この日だけは早朝4時に開園し、夜明けとともに開花する蓮の花を楽しむ行事です。「井田」に咲く紅色の花の「大賀ハス」と、「花葉の池」に咲く大輪の白い花の「一天四海(いってんしかい)」。朝日が昇る前に、この二種類の蓮の花を観賞しようと、大勢の観光客がこの二か所を何度も行き来します。東雲の下、朝露と共に舞うように咲く蓮の花は、とても神聖で可憐な姿を見せてくれます。延養亭から園内に響き渡る琴の音をずっと聴いていると、いつのまにか朝日が昇り、曇った空も晴れていき、その青空の下で揺らぐ蓮の花は、より一層輝かしく見えます。この余韻を噛み締めて、鶴鳴館に設けられるお茶会で一服のお茶を頂いては、出口で用意してくれる特製弁当を園内で思い思いに楽しみます。一年に一度しかできない優雅な「朝活」は、初夏の後楽園ならではの贅沢なのです。
太平の世への願い
藩主の好みや社会事情によって景観が変化してきた後楽園ですが、様々な景観から同じ「テーマ」が見えてきます。それは「太平の世への願い」だったのではないでしょうか。
後楽園から旭川を隔てた南にある岡山城は、慶長2年(1597年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)が、旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城したものです。旭川を城や城下町の防御を固める堀の代わりとして利用しましたが、あまりに不自然な流路となったため、岡山城下は度々洪水に悩まされていました。
藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政の治世となりました。綱政は、父・光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建を行いました。綱政は、新田開発はもとより、放水路・百間川の開削など、抜本的な洪水対策を行い、藩の財政の再建に成功しました。貞享3年(1686年)ごろに、百間川が完成し、藩の財政にも余裕が生じてきたため、綱政は永忠に造園を命じましたが、途中、洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされました。それでも、藩主・綱政は岡山在城中に足しげく庭園に通い、完成したばかりの延養亭で、永忠をはじめとする造園工事に携わった家臣をねぎらい、園内で宴を催していました。
明和8年(1771年)、岡山藩が財政難に見舞われ、藩主・治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していきました。その後、明治15年(1882年)に多額の負債を抱え、財政的に苦しかった池田家当主の章政は、後楽園の土地は無償で、建造物と樹石は有償で、岡山県に譲渡しました。
こうして、明治以降も江戸期の姿をそのままに留めていた後楽園でしたが、太平洋戦争中の1940年代前半には食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生部分がイモなどの畑に転換され、さらには昭和20年(1945年)6月29日の岡山空襲により、江戸期から残っていた延養亭など、園内の建造物の多くが焼失してしまいました。戦後、岡山県はおよそ2億円の費用を投じて、園内を本来の景観に復元。昭和42年(1967年)に園内の全ての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻しました。
洪水、財政難、そして戦災を経験しても、これらを一つ一つ乗り越えてきた後楽園。どれほど姿を変えても、岡山の人々の心を癒し続け、今後も変わらないでしょう。岡山城に見守れながら咲き誇る蓮の花たちは、臣民たちを気遣った綱政の「太平の世への願い」を載せて、今年も、その神秘的な姿で訪れた人々を魅了しています。
(文・常夏)