湯島聖堂の「大成殿」(孔子廟)(2010年2月3日撮影)(江戸村のとくぞう (Edomura no Tokuzo), CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 湯島聖堂は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡です。聖堂とは孔子を祀った祠堂のことで、孔子廟とも言います。

 元禄3年(1690)、幕府が儒学の振興を図るために、湯島の地に湯島聖堂を建立しました。建立後間もなく、儒臣林羅山の私邸にあった孔子廟と私塾をここに移しました。そして約100年後、幕府直轄機関の昌平坂学問所が設置され、林家の家塾とされていた従来の位置づけが改められました。明治維新後、昌平坂学問所は新政府に接収され、大学校と改称されましたが、明治4年(1871)に閉鎖となりました。林家の私塾から学問所まで約240年も続いた儒学の講筵は、その歴史に幕を閉じました。

 幕府の学問的象徴とされた湯島聖堂は、繁栄と衰退の道を辿りました。その盛衰は幕府の盛衰そのものを写し出しているように思われます。

  本文では、湯島聖堂の歴史的変遷を振り返ってみたいと思います。

一、忍岡聖堂から湯島聖堂へ

 1)忍岡聖堂

 君臣、父子、上下の秩序、礼儀を重んじる朱子学は、幕府の封建的支配を理論づけるのにふさわしいことから、教学として採用されました。藤原惺窩の弟子である林羅山は、徳川家の家康、秀忠、家光、家綱の将軍4代に仕え、朱子学を講じました。

 寛永9年(1632)、3代将軍の徳川家光は儒学振興のために、林羅山に上野忍岡の地に1353坪の土地と金200両を出し、私塾と書庫を建設させました。その後、儒学好きの尾張藩主徳川義直は、さらなる資金援助をし、孔子廟である「先聖殿」を完成させ、自ら「先聖殿」の額の文字を記しました。以後、江戸幕府が官費を用いて何度も「先聖殿」を補修、修繕工事を行いました。

 2)湯島聖堂

 5代将軍徳川綱吉が地位を継ぐと、儒教の振興は江戸幕府の事業であり、聖堂はその政策の中心であるべきだ、等の理由を挙げ、湯島に敷地を確保し、新たな聖堂を造営すると通告しました。新しい聖堂は忍岡聖堂より規模が大きく、立派な建物となり、綱吉自らそれを「大成殿」と命名しました。

聖堂(江戸名所図会より)(パブリック・ドメイン)

 元禄3年(1690年)、忍岡聖堂と林家の私塾は湯島に移され、新しい聖堂の一部に含まれることとなり、以後、湯島聖堂と称されるようになりました。湯島聖堂周辺の坂は孔子の生誕地である昌平郷に因んで「昌平坂」と命名されました。

 元禄4年(1691)、林家三代の林信篤は初代の大学頭(注2)の官職に任じられ、以後、大学頭の官職は代々林家が世襲し、聖堂の長の役割も担いました。

二、幕府直轄の「昌平坂学問所」となる

 1)昌平坂学問所の設立

 代々幕府の学問の責任的立場を務めてきた林家は、幕府から手厚く保護されていましたが、次第に凋落の道を辿り始めます。そういった状況の中、陽明学や古学派など様々な儒教の学派が台頭し、朱子学は不振となっていきました。

 江戸時代中期、寛政の改革が進められました。その改革の一環として、朱子学を幕府公認の学問と定め、林家の家塾を官立学問所に改め、学問所においては陽明学、古学の講義を禁止しました。寛政9年(1797)、湯島の聖堂及び学塾を正式に幕府のものとする形で、幕府直轄の教育機関としての昌平坂学問所が成立しました。

 私塾の頃、庶民の入学は禁じられており、旗本、御家人子弟の学舎でしたが、昌平坂学問所が開校すると、幕臣以外の子弟の聴講も可能となりました。そして林家以外からも柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里らが教授に任じられました。

 2)大成殿の改築

 官立学問所の開校に伴い、書生寮や教官住宅の増設、大成殿の建て替えといった大規模な改築が行われ、寛政11年に落成しました。

 改築した湯島聖堂は、敷地面積が1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿も創建時の2.5倍の規模の黒塗りの建物に改められました。この時の設計は、中国人儒者朱舜水が、かつて水戸藩徳川光圀のために製作した孔子廟の模型を参考にしたものです。

 昌平坂学問所は当時の最高学府でした。これに倣って藩校を設立、整備した藩も多く、昌平坂学問所出身者は藩校の講師として招かれたり、優れた藩士子弟を昌平坂学問所に留学させたりする事も多かったとのことです。

三、「昌平学校」の設立と廃止

 19世紀中期以降になると、幕府の衰退や洋学の発展、私塾の台頭などに伴い、昌平坂学問所は次第に最高学府としての権威を維持できなくなっていきました。

 昌平坂学問所は維新後期の混乱に際して一時閉鎖され、その後、新政府に接収され、慶応4年(1868)には、官立の昌平学校として再出発しました。

 しかし、昌平学校は従来のような儒学、漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学、神道)を上位に置き、儒学を従とする機関として位置づけられました。特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」の中枢として位置づけられて以降、儒学派と国学派の主導権争いはより激化しました。そのため、明治3年7月12日(1870年8月8日)を以って、昌平学校は休校となり、その後も再開されることなく廃止となりました。

 昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現東京国立博物館及び国立科学博物館)、東京師範学校(現筑波大学)や東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)が構内に設置されました。現在、湯島聖堂は近代教育発祥の地とも呼ばれています。

四、まとめ

  大正12年(1923)の関東大震災で、湯島聖堂はほとんど焼失してしまいました。現在の聖堂は昭和10年(1935)に再建されたものです。復興した聖堂の規模、構造すべてが、寛政9年当時の旧聖堂に拠るものですが、木造であったものを鉄筋コンクリート造りとしています。そして祀られている孔子像は、朱舜水が来日した際に携えて来たものです。

 現在、湯島聖堂では、昌平坂学問所の伝統を継承して、中国古典文学を中心とした文化講座が定期的に開かれ、毎年4月の第4日曜日には「孔子祭」や、孔子とその学問を顕彰する活動が行われています。

(注1)  藤原惺窩の弟子で、朱子学者である。徳川家康から四代将軍家綱までの侍講を務め、諸法度や外交文書の作成に参与。子孫代々大学頭を務めた。
(注2)  江戸時代、昌平坂学問所の長官のこと。

文・一心)