陳和卿(ちんわけい 生没年不詳)は、平安時代末期に渡来した中国宋の人物です。鋳造や建築に造詣が深く、日本に新しい技術を伝えました。
商用で日本に渡来し、船が損壊して帰国できないでいたところを、寿永元年(1182)に東大寺大勧進職(注1)の重源(ちょうげん1121〜1206)に招かれ、兵火により損傷した東大寺大仏の復興事業に参加し、特に困難を極めた大仏頭部の鋳造には中心的な存在として活躍しました。
一、焼け落ちた東大寺の再建に参加する
治承4年(1180年)、平氏軍の「南都焼討」によって、興福寺が全焼し、東大寺の主要な伽藍の殆どが焼け落ち、多くの仏像、仏具、経典なども灰燼に帰しました。
東大寺の本尊である盧舎那仏像も甚だしく焼損し、頭部と両腕が焼け落ち、仏身の前後に転がっていました。
東大寺の再興に奔走したのは、東大寺勧進職に任命された重源でした。
重源は3度も宋を訪れた僧侶で、建築に対する造詣が深く、広い人脈を持っていました。精力的な勧進活動によって、重源は再興に必要な資金や支持が得られ、技術者や職人も集めました。
しかし、大仏鋳造についての技術的裏付けがないことは、重源の悩みのもとでした。当時、日本の有名鋳物師でも、「大仏像の修復は大変難しく、天平時代の技が伝えられていないから自信がない」と仕事を引き受けませんでした。
そこで、重源は日宋貿易の拠点となる博多に人を遣わし、宋から来た技術者がいないか探しました。すると、「陳和卿という宋の人がいる。彼は木工事も鍛造も鋳造もできる技術者で、博多で船が破損して帰れないでいる」という情報が入りました。
直ちに博多に向かった重源は、陳和卿と面会し、「戦乱で焼け落ちた大仏とそれを納める大仏殿の再興にぜひ協力してほしい」と説得しました。事の重大さと自らの使命を感じた陳和卿は、帰国の念を取りやめ、弟の陳仏寿と5人の従者と一緒に、東大寺の再興に参加することにしました。
二、東大寺の再建に中心的な役割を果たす
寿永元年(1182)7月23日、重源は陳和卿一行と東大寺大仏の前にいました。彼らが目にしたのは黒く焼け焦げた大仏殿と、頭部と両腕が焼け落ち、胴体もぼろぼろになった大仏でした。
「必ず東大寺を再興しよう」と重源と陳和卿は心の中で誓いました。
陳和卿らの働きによって、大仏像の修復、大仏殿の再建築、さらに他の建造物の再建という道筋が付けられました。
寿永二年(1183)4月19日から大仏の頭部鋳造が開始されました。惣大工を任された陳和卿は、弟の陳仏寿など中国人6人、日本の鋳物師ら14人を率いて困難な鋳造作業を進めました。大仏の頭部から、右手、左手の鋳造、表面の研磨、金箔の貼り付けなどの作業を行った末、大仏が再興されました。
次に大仏殿や南大門などの再建に取り掛かりました。その際、大陸式の新しい建築様式を導入し、それは当時の宋の福建省周辺の建築様式に通じるものと言われています。現在の建築史では一般的に「大仏様」と呼ばれています。
1195年、大仏殿の再建築は遂に完成しました。それは開始から10年以上も費やした巨大なプロジェクトでした。
三、再建供養式典で源頼朝の面会を拒む
建久6年(1195)3月、東大寺の再建供養式典が行われました。
その際、鎌倉殿の源頼朝は陳和卿との面会を希望しましたが、陳和卿は、「頼朝は平家との戦いで多くの人々の命を奪った。罪深い人間には会いたくはない」という理由で面会を拒否しました。
しかし、頼朝は陳和卿に怒るどころか、むしろすっかり感心して涙を堪えました。
せめてもの気持ちとして、頼朝は奥州合戦で使った甲冑や鞍などの武具や馬、金銀を陳和卿に贈呈しましたが、陳和卿は甲冑を東大寺造営の釘に加工し、鞍は東大寺に寄進し、金銀などは頼朝に返しました。
東大寺再建の功績によって、陳和卿は朝廷や幕府から数か所の荘園を贈与されました。それも全て東大寺に寄進されました。
当時の事実上の最高実力者である源頼朝との面会を断り、贈呈されたものを寄付したり、返却したりした陳和卿は、技術が優れているだけではなく、世俗的な事柄に執着せず、素晴らしい人格を持つ高尚な人だと分かります。
高く評価された陳和卿ですが、東大寺の僧侶たちから反感を買い、告発され、その地位を追われてしまいました。それは元久三年(1206)のことでした。
四、源実朝との不思議な縁
追放されてからの10年間、陳和卿の足取りは明らかになっていません。しかし、建保4年(1216年)6月8日、陳和卿は突如鎌倉に現れ、3代目の将軍である源実朝との面会を希望しました。
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によると、6月15日、陳和卿は、源実朝を三度拝み、涙をこぼしながら、「将軍はその昔、宋の医王山の長老であり、私はその弟子でした」と話したそうです。
不思議なことに、源実朝も、5年前に高僧から同じことを告げられた夢を見ていました。その夢のことを誰にも話していなかったため、陳和卿の言葉は真実で、自分の前世は中国に住んでいたと、源実朝は深く信じました。
そこで、実朝は渡宋を思い立ち、陳和卿に大船を建造するよう命じました。船は、翌建保5年(1217年)4月17日に完成しましたが、試航した際、海に浮かばなかったため、渡宋計画は失敗に終わりました。
その後、陳和卿はどこへ行ったのか消息不明になり、歴史の表舞台からその姿を消しました。
約800年も前の交通が不便な時代に、陳和卿は遥々中国から渡来し、船の破損で帰国ができず、重源との運命的な出会いを果たし、自らの技術を生かして焼損した大仏や大仏殿の再興に尽力しました。もし人間に定められた使命があるとすれば、陳和卿はきっとその使命をしっかりと果たしたと言えるでしょう。
(注1) 東大寺内で伽藍堂宇(がらんどうう)の造営修理にあたる最高責任者の称。
(文・一心)