一、日本最古の仏像
538年に、朝鮮半島百済の聖明王は使者を遣わし、日本の欽明天皇に、金銅の仏像や経典、仏具などを贈ってきました。その年は仏教が正式に日本に伝来した年とされ、その仏像は日本最古の仏像とされています。
日本には古来より信仰の対象として「八百万の神々」がいましたが、姿のある神を祀っていませんでした。そこで、伝来した異国の黄金に輝く仏像は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。
二、仏教の受容をめぐる激しい対立
仏教の布教は前途多難な道のりでした。
当時の豪族である蘇我氏と物部氏は、仏教を受容するか否かをめぐり、「崇仏廃仏論争」を展開しました。
蘇我氏は渡来人との関係が深く、「大陸の優れた文化であり、西方の国々が信仰している仏教を受け入れるべきである」と主張しましたが、物部氏は「外国の神を受け入れれば、日本古来の『神』が怒る」と反対し、仏教を徹底的に排除するべきだと主張しました。
欽明天皇は百済より贈られた仏像を試しに祀るように、と蘇我氏に命じました。蘇我氏は飛鳥の向原にある屋敷を浄めて寺としました。最初の仏像を祀ったことで、向原の寺は日本の最も古い寺とされています。
その後、日本国内で疫病が流行り、多くの人々が病気でなくなりました。物部氏はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判しました。欽明天皇はそれを認め、仏像を祀っていた向原の寺は焼き払われました。しかし、家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なく仏像は難波の堀江に投げ込まれました。
ところが、疫病はなくならず、天災が続きました。
三、聖徳太子の仏教による国づくり
廃仏派と崇仏派との間の激しい論争は、次の世代まで続き、蘇我氏と物部氏の対立も更に激化し、やがて皇位継承をめぐる争いに発展しました。587年、「丁未の乱」が起こり、蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)とともに戦い、物部一族を滅ぼしました。それより、仏教は積極的に取り入れられ、日本に定着するようになりました。
593年、奈良で日本最初の本格的な寺院である法隆寺が建立されました。
摂政となった聖徳太子は仏教の思想に基づいた政治を行い、604年に「十七条憲法」が発布されました。それには「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり」と明記されており、それは仏教を国づくりの柱に据えた証となりました。
仏教が伝来して数十年の時を経て、ようやく仏教は信仰の対象として花開き、日本の中枢を担う政治や文化の中心として重要な役割を果たすようになったのです。
四、善光寺の本尊として祀られる
一方、難波の堀江に投げ込まれた仏像は、その後どうなったのでしょうか。
『善光寺縁起』(注1)によると、西暦600年、信濃の国から都に上った本多善光という男が、家に帰る途中、堀江の前を通りかかった時、偶然仏像を発見しました。仏像を目にした善光はとても感激し、喜び、仏像を背負って信濃に戻り、自宅に置きました。
642年には、如来のお告げにより、現在の善光寺の所在地に御堂を立て、如来像を安置し、644年には勅願により伽藍が造営され、寺名を本田善光の名から「善光寺」としました。
百済から贈られてきた仏像は現在、長野県の善光寺の本尊として祀られています。
五、秘仏とされる日本最古の仏像
『善光寺縁起』によると、善光寺本尊は654年以来、秘仏とされ、人の目に触れることはなくなったとのことです。歴代の住職を含め、誰も見たことのない幻の仏像は、神秘のべールに包まれています。
善光寺本尊は、中尊の阿弥陀如来、両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩の3体が立ち並ぶ、「一光三尊阿弥陀如来像」とされています。誰も拝観できない本尊の代わりとして、「前立本尊」が存在しています。「前立本尊」は、本尊を忠実に模写しているものとされています。
「前立本尊」は、中尊42.4㎝、左脇侍30.5㎝、右脇侍30.2㎝となっており、鎌倉初期に作られたものと伝えられ、現在重要文化財に指定されています。「前立本尊」でも、七年に一度しか一般公開されず、その時だけお姿を拝観することができます。
『善光寺縁起』によると、「阿弥陀如来像」は、天竺の月蓋長者が鋳写したもので、百済の聖明王に伝えられ、その後、日本に渡ってきたいわゆる「三国渡来の仏像」と言われています。
多難の運命を辿った「三国渡来の仏像」は、今も多くの日本人の心の拠り所になっています。
注1: 信州善光寺の起源や由来を伝える物語である。
(文・一心)