唐の玄宗・李隆基(パブリックドメイン)

 「漁陽の進軍太鼓が地を揺るがして迫り、霓裳羽衣の曲で楽しむ日々を驚かす」①

 唐の玄宗・李隆基とその妃・楊貴妃を詠う、白居易の『長恨歌』。「霓裳羽衣②」の出自として、この一節は皆さんもご存じでしょう。

 唐の玄宗・李隆基(り・りゅうき)は、即位後、則天武后以来の混乱を平定し、綱紀の粛正、農業の振興、辺境の防備に努めました。国をより良く治めようと精励し、重要な職務に賢材を任命し、「開元の治③」を創り上げました。唐王朝を中国文明の頂点に導いた皇帝が、私たちが知っている玄宗です。

月宮殿を訪れた唐の玄宗皇帝(北京・頤和園の回廊絵画)(Shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 しかし、そのあと、絶世の美女・楊貴妃の虜となって、日毎、踊りと歌に溺れてしまった玄宗。朝政を徐々に弛めて、小人④が政権を握るようになり、長らく平和だった長安は次第に堕落しました。最後に、その状況に乗じた安禄山と史思明が、天宝14年(紀元755年)11月に汾陽(現在の北京)に兵を集めて、そのまま長安を占領しました。やむを得ず玄宗は、玉座を後にして、急いで西に向かわなければなりませんでした。その後、皇帝は馬嵬坡で涙ながらに楊貴妃に死を賜りました。

 その後、逃亡の一行は二つに分かれました。玄宗は、引き続き南西に向かい蜀に入り、皇太子の李亨は霊州(現在の寧夏霊武市)で、粛宗として即位しました。粛宗は郭子儀を朔方節度使に、李光弼を河東節度使に任命し、反乱軍を討伐し、河北を奪回しました。至徳2年(紀元757年)12月、既に太上皇となった玄宗は、ボロボロになった長安に戻り、憂鬱な思いの中で人生最後の五年間を過ごしました。

 賢明の壮年と荒廃の晩年。これは私達が知る玄宗の姿です。しかし、古書『唐語林』を読むと、これまで知られていない、もう一つの玄宗の姿が浮かび上がります。今回は、多くの人が知らない「唐の玄宗」の真の姿を見てみましょう。

エピソード 1

 玄宗は兄弟たちと、とても仲良しでした。玄宗は、昼間だけでなく、夜も兄弟たちと一緒にいるために、長い枕と大きな布団を作りたいと、よく考えていました。

 ある時、兄弟の一人が病気になりました。それを聞いた玄宗は一日中その兄弟のことを心配し眠れなくなり、食事すら喉を通りませんでした。周りの近侍たちは「体に障るので食事を摂るように」と玄宗に勧告しました。しかし玄宗は「兄弟は私の手足です。手足が健康じゃなくなると、私の体もダメになります。食事や睡眠のことを考える時間がどこにあるのでしょう」と答えました。

 この件の後、玄宗は洛陽に「五王宅」を建て、長安に「花萼楼」を建て、以前よりも兄弟たちと過ごす時間を増やしました。この頃には、経学と大義について語り合い、時にはお酒を酌み交わして詩を詠みました。玄宗は、決して兄弟たちを疑うことなく、共に話したり、笑ったり、遊んだりして兄弟たちとの時間を過ごしていました。⑤

エピソード 2

 玄宗は逃亡する際、長安城の「延秋門」から出て、西へ向かうつもりでした。楊国忠の提案に従い、玄宗は、行列を左蔵庫の西側に沿って進ませました。しかし、この時、玄宗は松明(たいまつ)を手にした千人以上の人々が、行列の後方にいるのを見かけました。

 玄宗は車を止めて「あれは何ですか?」と楊国忠に聞くと、楊国忠は玄宗に「反逆軍に宝物を奪われないように、国庫を燃やさせて下さい」とお願いしました。これを聞いた玄宗は「反乱軍が来た時、もし国庫を強奪できなかったら、間違いなく国民にもっと重い税金を課すでしょう。だから国庫を反乱軍に残してあげましょう。これ以上、国民を苦しめてはいけません」と真剣な表情で言いました。そして玄宗の命令によって、全ての松明を消した一行は、国庫に火を付ける事無く出発しました。

 この件を聞いた人々は、とても感動しました。「我々の皇帝はとても国民を愛しているので、皇帝のご幸運は決してここで終わることがありません!過去にも、夷狄の侵略と戦禍から臣民を守り、家族を連れて故郷を離れた周太王(古公亶父)がいましたが、我々の皇帝の慈悲深さは、きっとそれ以上でしょう!」と互いに涙を流しながら玄宗に感謝しました。⑥

エピソード 3

 玉座を奪われ西の蜀へ向かい逃亡する玄宗の一行が、初めて斜谷(現在の陝西省宝鶏市轄)に入った時。まだ早朝で濃い霧がたちこめ、視界を遮っていたので、馬車は速度を落としました。

 知頓使給事中⑦の韋倜(い・てき)は、野原で醸造できたばかりのお酒が入った壺を発見しました。玄宗が風邪をひくのを心配したのか、韋倜は馬車の前にひざまずき、玄宗にそのお酒を勧めました。四回繰り返しお酒を勧めましたが、玄宗は一向に受け取りませんでした。

 韋倜は怖くなりました。「玄宗はお酒に毒が入っていることを疑っているのではないか」と心配していました。そこで彼は、お酒を新しい容器に注ぎ、まず自分のために一杯に注いでから、別の杯に注ぎ、再び玄宗に捧げました。

 慌ただしく怯えた韋倜を見た玄宗は、忍びなくなり「韋さんは、私があなたを疑っていると思っているのですか?実は、私が即位したばかりの頃、酒に酔って人の命を奪ったことがあります。それがとても悲痛でしたので、今後の戒めとしてお酒をやめました。その時から40年以上、私はお酒の美味さを味わっていません」と言いました。そして、高力士と他の近侍らを指さしながら「彼らは皆、このことを知っています。私は本当に、韋さんを疑っていませんよ」と続けました。⑧

 孔子は「君子は、どんなに慌ただしい場合でも『仁』に基づいて行動し、つまずき倒れるような危急の場合でも『仁』に基づいて行動するものである⑨」と言いました。普通の人は、心の中はそれほど優しくて真っ直ぐではなくても、自分が高潔であると皆に思わせるために、その様な「ふり」をします。一方、本当の君子は、自らが浮き沈みの真っ只中にいても、心の底から仁義と品格を貫くことができるのです。これは人の真心の現れであり、深い修為の体現でもあります。

 玄宗は、国の統治という面で、初めは成功しましたが、最後まで続かず、唐の時代に頂点にまで達した彼の統治は、また彼の統治によって衰退し、多く人々に遺憾と哀惜を残しました。しかし『唐語林』からは、兄弟と国民を愛し、そのために克己する仁君の風格が見えてきます。今となっては、唐の玄宗の本当の姿は知る事ができませんが、その純朴さと厚情を記した君子の物語は、たとえ歴史の川底に沈んだとしても、語り継がなければなりません。

註:
①中国語原文:漁陽鞞鼓動地来,驚破霓裳羽衣曲。(『長恨歌』より)
②霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)とは、唐の玄宗が楊玉環のために作ったとされる曲。
③開元の治(かいげんのち)とは、「貞観の治」と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つ。
④「小人」は中国語では、地位の低い人や心が狭い人を指す。
⑤中国語原文:玄宗諸王友愛特甚,常思作長枕大被,與同起臥。諸王或有疾,上輾轉終日不能食。左右開喩進膳,上曰:「弟兄,吾之手足,手足不理,吾身廢矣,何暇更思寢食?」上於東都起五王宅,又於上都創花萼樓,益與諸王會聚。或講經義,賦詩飲酒,歡笑戲謔,未嘗猜忌。(『唐語林<卷一・德行>』より)
⑥中国語原文:玄宗西幸,車駕將自延秋門出,楊國忠請由左藏庫西,上從之。望見千餘人持火以俟駕。上駐蹕曰:「何用此?」國忠對曰:「請焚庫積,無為盜守。」上斂容曰:「盜至,若不得此,必厚斂於人。不如與之,無重困吾民也。」命徹火炬而後行。聞者皆感激流涕,迭相語曰:「吾君愛人如是,福未艾也。雖太王去豳,何以過於此也。」(『唐語林<卷一・德行>』より)
⑦知頓使給事中:唐代の天子の詔勅を審議する要職。
⑧中国語原文:玄宗西幸,始入斜谷。天尚早,煙霧甚晦。知頓使、給事中韋倜於野中得新熟酒一壺,跪獻於馬首數四,上不為之舉。倜懼,乃注以他器,自引一,滿於上前。上曰:「卿以我為疑耶?始吾即位之初,嘗飲大醉,損一人,吾悼之,因以為戒。迨今四十餘年,未嘗甘酒味。」指力土及近侍者曰:「此皆知之,非紿卿也!」(『唐語林<卷一・德行>』より)
⑨中国語原文:君子無終食之間違仁,造次必於是,顛沛必於是。(『論語・里仁』より)

(文・李子霽/翻訳・宴楽)