一、小石川後楽園の最古の建物「得仁堂」
小石川後楽園は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の屋敷の庭として造り、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見を取り入れ、中国の教えである「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、その名を「後楽園」と名づけました。
後楽園には、多くの建物がありましたが、地震による倒壊や火災での焼失により、現在、四つの建物しか残っておらず、そのうち創建当時の姿を留めているのは、「得仁堂」と言う小さなお堂だけとなっています。
「得仁堂」は、光圀が18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉兄弟の高義に感銘を受け、二人の像を安置するために建立した建物です。また、その名も、孔子が伯夷と叔斉を評して「求仁得仁 (仁を求めて仁を得たり)」(『論語』述而第七の十四)と語ったことに由来するものです。
二、『史記』に記された「伯夷列伝」とは
光圀の心を打った伯夷、叔斉兄弟は、いったいどんな人物で、どんなことをしたのでしょうか。
史記「伯夷列伝」には、次のような逸話が記されています。
伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、古代中国の殷代末期の孤竹国の王子で、伯夷が長男、叔斉は三男でした。
国主である父は、三男の叔斉にその跡を継がせようと考えていましたが、長男の伯夷はこれを妬まず逆らわず、父の死後にはその遺言の通り、叔斉に王位を継がせようとしました。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとしました。そこで、伯夷は兄弟の間でいさかいが起きぬよう配慮して、自ら国を出て行きました。叔斉は伯夷が去っても王位を継ぐつもりはなく、やがて兄を追って彼もまた国を出ました。国王不在で困った国人は、やむを得ず次男を王に立てました。
兄弟2人は、周の文王の徳を慕って周へ行きました。しかし、武王は、父親である文王の死後すぐに、殷の紂王(ちゅうおう)を討とうとしました。そこで2人は、そのことは不孝、不仁の行為だと諫言しましたが、聞き入れられませんでした。周の統一後、このまま周王のもとで俸給をもらうのを潔しとせず、兄弟2人は山に隠居し、餓死してしまいました。
伯夷と叔斉について、孔子は『論語』で、次のように評価しました。
子貢は「伯夷と叔斉はどういう人物でしょうか」と聞くと、
先生が「昔の賢人だよ」とおっしゃった。
子貢は「彼らは後悔したのでしょうか」と尋ねると、
先生が「彼らは仁を求めて仁を得ることができた。何を後悔することがあっただろうか」と答えました。
儒教では、伯夷と叔斉を清廉潔白な士であり、聖人であると古くから高く評価してきました。
三、徳川光圀が「伯夷列伝」との出会い
伯夷と叔斉の話は、水戸藩の第2代藩主である徳川光圀の人生に大きな影響を及ぼしました。
と言うのも、光圀は彼らに似た境遇にいたからです。
光圀は6才の時、兄を差し置いて水戸藩の世継ぎに指名されました。それに苦悩した光圀は世継ぎの重圧から逃れたいと思い、放蕩三昧な生活に走りました。
18才の時、光圀は「伯夷列伝」に出会い、それに取り上げられていた伯夷と叔斉の兄弟の清廉な生き様に、大きな感銘を受けました。そこで、彼はそれまでの放蕩生活を恥ずかしく思い、学問に精を出す好学の青年へと生まれ変わろうとしたのです。
そして、光圀は「伯夷列伝」を手掛かりとして、兄頼重の子供を自分の跡継ぎに指名することで、兄を差し置いて世継ぎの座に据えられた苦しみから抜け出し、心の安らぎを得ようと決意するに至ったとのことです。
「得仁堂」を建立し、伯夷と叔斉の像を祀ったことから、光圀がその徳を慕い、彼らを手本としていた強い思いが伺えます。
因みに、現在、伯夷と叔斉の木像は「得仁堂」には安置されておらず、東京都によって保管されているそうです。
仁義を重んじ、譲り合う精神を最優先にし、自らの理念を貫こうとする伯夷と叔斉の生き様に、光圀は強く共鳴したのでしょう。その思いは、その後、彼が儒学を奨励し、『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎を作り、「名君」と呼ばれるようになった原動力となったのではないでしょうか。
(文・一心)